第四章 石

第四章 石_c0020738_2021569.jpg

 ある日突然、父が大きな白っぽい石の塊を持って帰ってきた。縦横30cm位あって、厚さは10cmはあったと思う。
 私の横にその石を置いて、
 「今度な、この石を削るから一緒について来い。この石に綱を巻きつけてな、それを自転車の後ろに縛って、俺が自転車で引くから、お前はこの石に乗れ。」
 と言うのだ。
 私は、一向に意味は分からなかったが、どうも面白そうだったので機嫌よく「いいよ。」と答えた。
 翌日の日曜日、父は私を連れて、家の近くの土手へ向かった。
 土手は、水面からおおよそ5mほどはセメントで出来ていて、その一番上の所は1m程度平らになっている。自転車でもその上を走ることが出来る広さである。セメントで出来ているのだから、その表面は適当に凹凸があり、その凹凸が例の石を削るのに丁度良い摩擦を与えてくれるのだろうと父は考えたようである。
 予告どおり、綱で縛られた石の上に私は乗った。これは面白そうだとわくわくしながら出発のときを待った。すぐに父は、「よし、行くぞ。」と言う。私は綱をしっかり掴んでまるで遊園地の犬ぞりにでも乗るように期待を込めた。
 父は、良しとばかり、ペダルを踏む。石が動き出す。ガリガリと音を立てて滑り出す。ところが50cmも進まないうちに、私はコテッと石から転がり落ちてしまう。自転車は一度止まり、父の「もっとちゃんと乗れ。」の号令が飛ぶ。私は前よりもっときちっと乗りなおす。綱をしっかり掴んで、また出発である。しかし、また私はコテッと落ちてしまう。父は首をひねり、「だめかー。」と私に尋ねる。私は、このゴトゴトが意外と楽しかったので、まだまだとばかりまた乗りなおす。しかし、結果は同じであって、私はコテッと落ちてしまう。五回ほど繰り返したが、父もこれにはあきらめたようである。
 すると今度は、
 「石の上に両手を乗せて、雑巾がけの恰好をしろ。」
 と言うのだ。
 私はいわれるままにその恰好をしたが、この恰好は非常に厳しい。腰掛けてゴトゴトと引かれるのは気持ち良いと思っていたが、これはひどい。走り出す自転車。ゴトゴトと石がうなりだす。私の手もそれに合わせてゴトゴト震える。5mもいかないうちに悲鳴を上げた。
 「もうだめだよ。」
 父は急に優しげな顔をつくって、
 「もう一回な。」
 と言う。
 仕方なく私は、また雑巾がけの恰好をしてゴトゴトと震えながら自転車に引かれていく。今度は10mくらい進んだ。しかし限界である。「もーだめだー。」と悲鳴を上げる。『これって、書道の修行の一つ?』などと石に向かって疑問を投げ掛けながら、更にもう一度雑巾がけの恰好が始まった。10mほど行くと、ついに私は石の横にコテッとこけてしまった。
ついに父もあきらめたようで、私の横に来て、石の磨れた面をまじまじと観察しだした。
 首をかしげる父。下から見上げる私。「上手くいかなかったの。」と尋ねると、父は反対側に首をかしげ、
 「帰ろう。」
 と言った。この言葉は、石削り作戦が失敗したのだと言うことを私に悟らせた。
 
 この石の塊、いったい何に使おうというのだろうか。まったく分からないまま、あの雑巾がけのことは忘れてしまっていた。
 それから一ヶ月位経っただろうか、父はまた大きな包みを抱えて帰ってきた。私の横にその包みを置くと、おもむろにそれを開いた。すると、それは黒くでこぼこした面と、その裏側はきれいに磨かれ、わずかな窪みを持った面とその先に更に深く作られた窪みを持った綺麗な石であった。私は、それがあの雑巾がけの石であることは直ぐに気付いた。
 こんなに綺麗になるなんて、というのが私の最初の印象である。がたがたしたでこぼこ石がこんなに綺麗に磨かれている。そしてそれが、大きな硯であることも直ぐに理解できた。
 父は、
「この硯は、半切のような大きな紙に書くときに使うんだ。小さいと直ぐに墨がなくなるだろ。だからこんな大きな硯を使うんだ。俺は、これを自分で作ってやろうと思ったわけだ。だからお前をこの石に乗せて引っ張ったんだが、どうも上手くいかなかった。それで、しょうがないので業者に頼んでな、作ってもらった。どうだ綺麗だろう。」
と言った。
 私は、本当にその石が綺麗だと思った。もとの白っぽいかさかさしたデコボコ石からこんなに綺麗な硯が出来上がることが信じられないくらい見とれてしまった。墨をする部分の窪みは本当に綺麗に削られていた。硯の側面と裏側はデコボコの形を残していたが、やや艶を含んでこれもまた綺麗に仕上がっていた。
 以後その硯は、父の机の隅に常に置かれた。私が、「磨らせて。」と言うと、父はにこにこしながら、その硯の向きを変えグーっと私のほうに押し出し、いつもより大きな墨を貸してくれて、私は得意になって墨を磨ったのである。
不思議なことが起こる。どんなに硯が大きくても、しばらく磨っていると、私の持つ墨はあの窪みの縁に当たる。ピシャっと墨の液体が空中を舞ってしまうのだった。
 
子供というものは、父親を何でも出来るスーパーマンのように思う。
今の時代はちょっと違うのかな?
でも、あの時代は、そう思っている子供は非常に多かったように思う。私もその一人だった。
 父が、こんな大きくて綺麗で立派な硯を作ってくるということが私のスーパーマンを更に立派にしていた。それに、こんな大きな硯は学校の先生だって使っていなかったし、それにあのでこぼこした硯の恰好が、何故か父を他の誰からも異なる偉大な存在に思わせたのだ。
そんなわけで、父がその硯で墨を磨る姿は、特別私の記憶に深く残っている。
by corobo | 2005-02-01 20:01 | Written Explanation


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