第三章 我家

第三章 我家_c0020738_1839773.jpg

 玄関を出て左に100mほど行くと荒川の土手がある。その土手を登ると右手にはすぐそこまで東京湾がせまり、左手には葛西橋が見える。
 私が小学校の一年生だった頃の土手は、まさに土で出来ていて、斜面には雑草が覆い茂っていた。そこにはトンボが沢山いて、夏場など毎日のようにトンボを採りに出かけた。
しかし、当時の荒川は、工場廃水等によって汚れきっていたし、その臭いもたいそうなものだった。

 そんな荒川の近くに私が生まれた家があった。東京都江東区南砂町7丁目161番。この辺は、地盤沈下の影響で海面よりも土地が低くなってしまったことから、「ゼロメートル地帯」と呼ばれていた。台風の季節になると、「枕元には非難のときに必要なものを置いて寝ること。」などと学校で教えられた。
 家のすぐ横は2m程の路地になっていてそこには各家の勝手口が並ぶ。勝手口というのは各家の裏側であるからトイレの小さな窓も並ぶ恰好である。当時は水洗トイレなどというものはあまりなかった時代だし、家の勝手口とか裏口とかいってみても、みんな小さな家であったから裏庭などというものはなく、家の裏はすぐ路地に面している。だからその路地は、溜めこみ式のトイレからの臭いが常に漂っていていつも異臭を放っていた。しかし不思議なもので、生まれて此の方何年もそこを遊び場としてその臭いを嗅ぎ続けていたせいだろうか、私にはその臭いは「臭い」というよりも「匂い」とでもとれてしまうような不思議な「香り」だったのだ。もちろん好い「におい」とはいえないのだが、生活の中の当然の空間として毎日接しているうちに当然の空気の内の一部とでも感じていたのかもしれない。
 家の近所には小さな町工場がいくつもあって、そこから風に乗って鉄粉の臭いが漂ってくる。これもまた、私の生活の一部となって私の嗅覚をごく自然に刺激する。鉄を削るキィーンという音も不快ではない。私という存在がこの世で持つごく自然な空間なのである。

 そんな土地にある我が家は、父が祖父から受け継いだ持ち家である。道路に面
した玄関を入ると8畳の和室があり、その奥が6畳の茶の間となる。茶の間には掘り炬燵があって、冬は毎朝祖父や祖母が練炭を燃べる。
 茶の間の更に奥に3畳ほどの板張りの台所がある。台所のさらに奥に一段下がって一坪程の土間のようなセメントの空間があった。私が小学校に上がる頃、その空間は改造されて風呂場となった。これで銭湯へ行かなくてすむと喜んだのを憶えいる。
 茶の間のふすまを開けるとそこには急な階段があって屋根裏部屋へと続いている。屋根裏部屋は、ちょうど小学校一年生の私が屈まずに歩けるほどの高さで、道路側に小さな窓があった。その屋根裏部屋は、私、祖父、祖母、そして兄弟たちの寝室となっていた。父と母は、一階の8畳間に寝ていたように記憶している。
 小さい家であったが、子供にとって家の大きさなどというものは自分の幸福度を測る尺度にはなり得るものではない。私は、父と母、祖父と祖母に囲まれて幸福な子供時代をおくらせてもらったのである。

 8畳間の角にはいつも木製の折りたたみのいすが十脚ほど立てかけられている。月に何度かそれらの椅子が部屋いっぱいに並べられる。父の机は部屋の壁を背にして大きいのが一つ置かれ、たくさんの椅子はそれに対面する形で置かれた。
 おおよそそれらの椅子を埋めるほどの人たちが我が家に集まってくる。そしてしばらくすると、墨の匂いが漂ってくるのである。
 その頃私は書道という言葉すら知らなかった頃なのだが、時々私がその部屋の入ったときに、何かもわっと体に覆いかぶさるような強烈な圧力のようなものを感じたのを憶えている。

 それでも私は時々その部屋へ忍び込む。なぜかというと、書を書く父の姿を見るためだ。で、なぜ父の姿かというと、父が字を書く前にいつもする不思議な動きが実に愉快であったからだ。
 ある日私は、父にその不思議な動きについて「何でそんな変な恰好するの?」と尋ねた。
 父は、にこにこ笑って、
 「うん、そうだなあ」
 と私にも分かるような言葉を探して、
 「字を書くときには、字を生き生きと元気良く書くんだ。そんな元気の良い字を書くために、前もってリズムをつけるんだ。そうすると、生き生きと元気の良い字が出来上がるんだ。」
 と力強く言った。
 「へえー、ぼくにもやらせて。」
 「よし、やってもみろ。」
 ということで、私はその不思議な動きを真似てみる。しかし、私がやると、筆を持つ手と同じように体まで一緒に動いてしまって、まるでひょっとこのクネクネ踊りみたいになってしまった。それで、そのまま字を書こうとしたものだから、ひょっとこのクネクネ踊りがそのまま字に乗り移ってしまい、まるでウナギが這ったような奇妙な字がにょろにょろと出来上がってしまったのだ。その頃覚えたひらがなを何度も書いてみるのだが、結果はみんな、ひょっとこウナギのにょろにょろ文字になってしまうのであった。

 父が私に書を習わせようとしたのはその頃(小学校一年生)である。筆と、墨と、硯を抱えて私の前に現れた父は、唐突に「おなえ、書をやれ。」と言うのだ。私は、書というものに対して違和感はなかったし、毎月数回行われている前出の書道の会を見るにつけ、興味をそそられていた。
 私は、直ちに父の言う『書』に同意する。
 ただ、当時他の習字教室に通っている友達は、硯と筆と墨と文鎮がきれいに納まっている木製のケースを抱えているのが常であったから、私もそのケースが欲しかった。しかし、父の抱えてきた硯や墨はそんなケースには収まらない程度の大きさだったから、きっとあのケースは買ってはもらえないだろうなと、ひそかにがっかりはしていたのだ。とわいえ、この程度の大きさの物を使ったほうが上達が早いという父の説得もあって、納得してそれら道具を使って私の書道が始まったのである。

 最初に習ったのが「いし」というひらがなだった。
 書を習い始めるときは楷書からはじめるのが通常である。しかし、父の用筆法に関する持論から、楷書からではなく、「かな」をまず初めに習わせる。

 父は、『学書階梯 創刊号』に用筆法の基本として次のように書いている。

 書は動きの中で形作られていくものであるから、行書から草書・かなになるにしがって動勢が主になり、筆者の心の動きが時々刻々と赤裸々に線(筆画)に現れる。それを筆意といって、書はそれを味わい楽しむものである。あくまでも線に現れる筆者の生命の躍動が主であり、流動するところに価値がある。書が生命的表現と言われる所持である。
 このように、書を芸術たらしめるものは、筆者の息吹であり、筆意である。筆意は用筆上のことであるから、書が芸術であるための絶対的条件は用筆法である。また、芸術は常に新鮮であり、生き生きとして、切れば血のほとばしるような若さが大事である。そこの観者に訴える力があるので、書は技術的にはそのような線を作る用筆法の研究に終始する。そして、用筆法は無限に展開するものであるから、初歩の段階では初歩の段階としての用筆法に習熟することから始めなければならない。
        中略
 次に、この基本の用筆法を会得するためには、どの書体から入るのがいいかということが問題になってくる。それは人によってまちまちであって、どれが正しいとは言えないが、楷書から入るよりは、行・草・かなの幅の大きい書体から入った方がいいと確信している。
 書は生き生きと書くことが基本で、字形は二の次である。生きた線を書く ためには、筆鋒が活躍する用筆法を一つ一つ身に付けてゆくことが必要であ り、それが書を芸術として高めるための基本となる。

 このようなことを父が小学一年生の私にもわかり易く話したように思う。しかし、そんなことより私が興味を示したのは、父が書く「し」の字だった。
 普通「し」の字は、見てのとおり最後のところが丸く上に向かって伸びて終わる。しかし父の字は、その丸くなるところがなく、ほんの少し右下へ角度をつけるだけで下へ向かってサーっと伸びていく。此れが実に面白かった。書というものが、鉛筆で書く字とは違うような気はしていたが、ここまで違うのかと感心してしまったのである。子供の頃から人と違うことをやっては喜んでいた私であるから、この父の「し」の字は痛快だった。父の前で、しの字を思いっきり書いた。サーっと引く、父が「良しそれでいい。」などと言うと、得意になってまたサーっと引くのである。
 書の始まりが、サーっであって私には快感そのものだったから、その後も私の書道は父とともに継続されることになった。

 しばらくすると、競書雑誌へ投稿するようになる。この雑誌は、小学生の部では、8級に始まり一級、初段を経て特段という段位を最高位としていた。
この雑誌に投稿するのがまた非常に楽しみであって、徐々に級位が上がるにつれて、張り合いが出てきた。

 昇級・昇段者の内の優秀者は写真が掲載される。
何級のときだったか、父が「おまえ、今度級が上がることになったが、写真が載るそうだ。」と言うのだ。私は喜んだ。本に写真が載るなんていうのは、有名な人だけだと思っていたからその喜びといったら大変なものだった。やっとのことで抑えたが、学校中に教えてあげようかと思ったほどである。私は、いつもは嫌で嫌でしょうがない床屋へもいったし、洋服もいつもはどれでもよかったが、余所行きのある箪笥の中の場所を母に聞いたりした。それから毎日きちっと歯も磨いたし、お風呂も入った。髭はまだ生えていなかったから髭を剃ることはしなかったが、毎朝顔をきれいに洗ったのである。
 ある日不審に思った母は、「あんた、どうしたの。」と首を斜めにしたまま私を覗き込んできた。私は大きな声で答えた。「写真が出るからさ。」
そのとき母は、その斜めの首が固定されたように肩も振らず私のもとから去っていった。
 その晩、父が私のところへやってきた。いつもより優しげな顔つきをして、「あのな、写真のことなんだけどな。実は、写真というのは、何でも撮れるわけだ。だからな・・・、そのー、実は写真っていうのはお前の書いたものが写真であって、お前が写真に載るわけじゃないんだ。ハッ、ハッ、ハッ。」と言うのである。
 その意味は直ぐにわかった。しかし、私は良く出来た息子であったから「あぁ、そんなのわかってたよ、あッ、洋服なんかさ、今度授業参観があるだろ。その時に着るのないかな、なんて探してたわけ。僕の書いたのが写真になるんだからすごいねー。」と言った。父は、「う、うん、まーそういうことだから。」といってそそくさと自分の部屋へ引き上げていった。
 その後私は、平静を保つように部屋を見回し、ふっーとため息をついた。それから机に目を戻し、突然机にどさっと突っ伏し・・・・・泣いた。

 毎年開催される書道コンクールは、書を始めた私の楽しみの一つであった。産経新聞主催のそのコンクールは、小岩にある愛国学園という中高一貫の女子高の校舎を借りて行われた。
 春風が吹く頃、父と二人でそのコンクールに向かう。
私は、そのコンクールで、何を書いたのかは一切忘れてしまったが、コンクールの開始間際の緊張感は今でも体の一部のような感覚として残っている。
そのコンクールのために、当然練習をすることになる。父はいつもと同じように私に教えていたが、私はコンクールの前は一層頑張った。
 始めて参加した時は、ただただ緊張していたことが思い出される。自分の硯と筆と下敷きと文鎮を鞄から取り出す。係りの人を眼で追う私に、暫くすると、半紙が3枚配られる。提出するのはそのうちの1枚である。いやおうなく生暖かな空気の塊が私の頭の上から覆いかぶさり、私の手足をわずかに強張らせる。此れを緊張というのだろうが、当時の私はそんな分析も出来ず、ただ配られた半紙に目をやり、練習のときのように失敗は出来ない重圧に耐えていた。
 やがて、「墨を磨りなさい。」と指示が出る。水注からいっきに水を加える。いつもより慎重に円を描くように墨を磨り始めた。
 父に教わった墨の磨り方は、ゆっくり円を描くように磨るというのだが、私がそれをやると、すぐに硯の縁に墨が当たってしまい、ピチャっという小さな音を立てて墨の混ざった液体が空中へ飛び散ってしまう。父はそれを見て、「ゆっくりだ。ゆっくり円を描くように。そして、磨っている間、これから書く字のことを考えるんだ。」と教える。私は、わかったとばかりうなずく。目は真剣である。一時、私の円を描く速度が緩まる。しかし、続かない。ほんの二三分も経つと、もとのようにまたピチャッっと音を立てて墨が散っていく。父は、「ゆっくりだ、ゆっくりだ。」と繰り返す。
 私は早く墨を磨りあげたいものだから、かなり力を入れて磨るという行為も加わる。これがいけないらしい。それも、磨る時間が経過するにつれ力がどんどん加わっていく。だから、ピチャっと硯から出て行く墨の液体もだんだん遠くまで飛んでいく。ついに、横においてある半紙の上にボテッっと黒い染みを作る。そうすると、「こら、それがいけない。もっと精神を落ちつかせて、ゆっくり、ゆっくり磨るんだ。」といって叱られる。しかし、私がどんなに、ゆっくり、ゆっくり墨を磨ろうとしても、いつも二三分経つと、ギシギシガリガリといった具合に私の墨は硯の上をぎこちなく回転運動することになる。
 こんな私であるから、墨のすり方がどうこう言える立場ではない。しかし、コンクールに来るまわりの小学生を見ると、ほとんどが墨を前後に移動させるだけで磨っていたから、少しばかり、誇らしく思えたのを憶えている。そのときの私は、例のピチャだけはするまえと緊張して磨っていた。
 一枚目、二枚目と書き進む。最後の三枚目ではどのようなものが書き上がるか不安になる。三枚目にやっとこれが一番良いと思えると、ほっとしてそれを提出した。
 初めてのコンクールで、銅賞というのを貰った。その頃の私は、銅賞であろうと、金賞であろうと、賞というものがよく分からなかった頃だが、上手く書けた内には入っているんだろうと思えた。しかし、会場で偶然に知り合った男の子が金賞を取ったというのを聞き、悔しく思ったことは確かだから、少しばかり競争心なるものが植えつけられたのだろうと思う。
 以後、そのコンクールは、私にとって、頑張ると賞というものをもらえて、頑張らないと落選してしまい、たとえ賞をとっても、賞にはいくつも種類があって、やるからには金賞を取れるように頑張るんだという教訓を教えてくれた。これが、怠け者の私としてもいい刺激になって、以後のコンクールは楽しみでたまらなくなった。そうやすやすと賞は取れなかったが、金賞を取ったときは、父もにこにこして喜んでくれた。

 コンクールの会場から駅までにある、高い生垣の家、およそ3メートルほどの小川、花屋の前にいつも置かれていたサボテン、帰りがけに必ず買ってくれたアイスクリーム、書の道具をカタカタ鳴らせて私が急ぎ足で歩く後ろを父が続く。今、あの道はどうなっているのだろうか。楽しい思い出の道であった。
by corobo | 2005-01-30 18:39 | Written Explanation


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