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ミチコ


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 柔らかい手のひらが、軽く握った私の手の甲を包んだ。
 ほんの一時の出来事だった。

 「最後のお別れです。」、係りのアナウンスが静かに流れる。少々事務的ではあるが、私はその道のプロのアナウンスに従った。
 棺に収められた父の顔を覗きこむ。棺からほんの少し距離をおき、斜めに父の顔が見える位置に立って、じっと父の顔を眺めた。
 柔らかい手は、二三度私の手の甲を握り込んだ。

 葬式が始まるや否や泣きだしてしまった。40歳になる私は今までに何回も葬式というものを見てきた。だから、どういった場面だと泣きたくなるかなど、かなり詳細に分析できていた。どうしたら泣かずに済むかということを告別式の前日から真剣に考えていたし、だから「泣かない」作業は成功するはずだった。
 しかし、それはみごとに違ってしまった。私は、葬式が始まるや否や泣きだしてしまったのである。身内の席に座った私は、肩を怒らせ、その肩より頭を低くし、どちらかというとキィーッとでもいうような金属的な声を出して泣いてしまった。
 
「どうなっちゃうかと思ったのよ。」
 ミチコは優しく語尾をあげるような口ぶりで言った。私はそれには何も答えず、ほんの少しだけ首を縦に振った。

 ミチコとは20年ぶりの再会だった。
 ミチコは父の弟の娘で、いとこである。同じ歳ではあるが、私が6月の遅生まれで、ミチコが3月の早生まれ。ほとんど1年近く違うこともあって、子供の頃は私の方が体格が圧倒的に大きかった。そんなわけだからだろうか、ミチコは私には何も文句は言わず、いわば私が威張っているという図式が出来上がっていた。
 いつも一緒に遊んだ。都バスで10分ほどの所にミチコの家があって、土曜日になると、どちらからともなくバスに乗って互いの家に遊びに行った。
 家から100メートル位のところに土手があって、その向こうに荒川が流れている。当時の川は公害というやつで汚く臭かった。そんな川であったが土手にはトンボや蝶々が沢山いて、ミチコと二人でよく採りに行った。私は特にトンボ採りなどが上手かったほうではないが、ミチコとの差は歴然とあって、得意になって威張っていたものである。
 ミチコはおおよそ泣き虫ではなかったが、私といっしょだとよく泣いた。私がいじめるから、というのが短的な解答なのだが、それにしてもよく泣いた。「泣くな。」と言うとまた泣いた。かと思うとすぐ泣きやんで私に甘えてくる。そうすると私はまたいじめた。するとミチコはまた泣いた。きりがなくなった頃、ミチコは泣くのをやめ、私はいじめるのをやめて、お互いの家に帰るのだった。
 電話などある家はわずかな時代である。ミチコと電話で待ち合わせなどしたことはない。例によって都バスで遊びに行く。いなければ待つ。待って帰ってこなければそのまま家に帰った。お互いそれを繰り返していた。それでよかったし、それで楽しかった。
 好きだと照れる。道を歩くときは「3メートル後ろを歩け。」と、私はミチコに命令した。クスクス笑いながらミチコは従った。家に着くと、ミチコはそれをすぐに言いつけた。みんな笑ったが、私は面白くない。「このやろー」とミチコの頭をたたくと、ミチコは泣いた。泣くと面白いから、また泣かした。かと思うとすぐに泣きやんで私に甘えてくる。そうすると私はまたいじめた。するとミチコはまた泣いた。きりがなくなった頃、ミチコは泣くのをやめ、私はいじめるのをやめて、お互いの家に帰るのだった。

 ミチコの手は柔らかかった。特に太っているわけではないミチコの手が、ふわふわしていた。すうーっとおなかの辺りから何かが抜けていく。心地よい綿のような空気に覆われていた。
 棺に横たわる父に触れてみたくなる。
 昨日、父が息を引き取るとすぐに私は少し開きかげんの父の口を押さえていた。人は死んだ後は硬くなるということを思い出したからだ。軽く閉じた口の形を保ちながらじっとしていた。父の肌もひげも柔らかかった。妨げるものがないほどその柔らかさは透き通った快感を私に与えてくれた。ふとうっとりとした私に、小さい頃、父の髭に頬ずりをした感触が蘇る。もっと硬くて張りがあってそしてじゃりじゃりしていた。くすぐったがる私に、父は面白がってまたごしごしと頬ずりをした。父のあごに両手を当てて突っ張ると、今度は脇腹をくすぐられた。ワッっと叫んであごから手を離す。すかさず父はまた頬ずりをした。
 30分ほどたった頃、看護婦さんが病室に入ってきた。これから父を病院から送り出すための準備があるのだろう。私は父から手を離した。父は温かかった。
 今、私の手には、そんな父の温かい体温がしっかりと残っている。
 私は悩んだ。冷たくなった父に触るべきかと。「最後のお別れです…」そんなアナウンスに心が揺れる。

 ミチコの手が温かかった。私の手の甲に伝わった温かさは、夕焼けを背にする遠い彼方の二人を蘇らせた。
 ミチコの肩を抱いていた。私の肩にミチコの顔が乗っていた。
「ねえ、私たちってどうなるの。」
 ミチコは訝しげに言った。
「知らない。」
 そっけなく私が答える。
 いとこだから結婚もできる。だから二人が好きでいることになんら不思議はない。しかし、どうもしっくりこない。いとこという関係が、二人にはどうも厄介な関係なのだ。だから、恋人同士などという関係は、二人にはピンと来ない。でも好きなのである。ピンとこないまま二人はいつづけた。
「キスでもしようか。」
「うん。」
 でもしなかった。
 キスなどしたら、恋人同士みたいで不自然だと二人は暗黙に思っていたのである。
 夕焼けが綺麗だった。手もつないでいるのだが、キスはできなかった。不自然なのだ。
「東京っていいよね。こうやって肩なんか組んだって誰も珍しがらないもん。だから堂々と肩組んでいられる。」
 ミチコが言った。
 私の家は、郊外に引っ越していた。郊外といっても東京から約一時間電車でかかる。だから田舎であって、そんなところで肩など組もうものなら、道行く人みんなが覗き込む。ミチコがこないだ遊びに来たとき肩を組んだら、じろじろ見られた。だからミチコは東京がいいと言ったのだ。
「キスしようか。」
「うん。」
 でもしなかった。

 火葬という儀式によって父がその形を変えることに非常な違和感を持っていた。なぜ、骨にしなければいけないのか。出来ればそのままで。
 しかし火葬という慣習を止める知恵も力も私にはなかった。
 失望、私は棺から目を離して天井を見あげた。
 すると、天井の真ん中に父の笑顔があらわれた。

『俺はこうやってお前らを見てるから大丈夫だ。』
 父が言った。
  
 ふたを閉じられた棺が仰々しく光る車に乗せられていく。
『また来てくれるの。』
 私が言う。
『ああ、大体いつもお前の上辺りにいるから安心しろ。』
 私はほっとした。
 ミチコは横で泣いていた。ミチコは父が上にいるのを知らないんだ。後で教えてやろう。
 
 ミチコの手がまた私の手の甲を包んだ。柔らかい手の感触は、雪の降るあの夜のことを思い出させた。
「東京の雪は汚いんだぞ。」
 そういう私にかまわずミチコは雪を口に入れた。やめさせようとする私の手を振り払ってミチコは雪を食べ続けた。
 雪明りの中、ミチコの目に薄っすらと涙が浮いていた。
「どうしたんだ。」
「ううん。」
 首を振るミチコの目から涙がこぼれだした。
 私はミチコの肩を抱く。いつもと違ってミチコはその手も振り払う。私に背を向け、小走りに走り出す。十歩ほどで止まると、私の方を振り向いた。口の横に雪が白く張り付いていた。
「どうしたんだ。」
「ううん。」
 ミチコは首を振る。
「あたしのこと好きでしょ。」
 唐突に言うミチコに、平静を装って、
「もちろんだよ。」
「じゃあ、きっと悲しくなるよ。これから話すこと。」
「えっ、なんなんだよ。」
 私はさすがに平静を装えず驚いた顔で答えた。
「でも、悲しくなんかないか。恋人同士じゃないし。それに、あなた、本当は私のこと好きじゃないんだよね。だって、好きだったらキスするじゃん。あなたしないもん。だから、好きじゃないんだよね、きっと。」
 一気に言い切るミチコの目じりに、溶けた雪がスーッと流れ出していた。
ミチコが私のことを(あなた)と言い始めたのは何時ごろからだろうか。小さいころはあだ名で呼ばれていた。いつの間にか、ミチコは(あなた)と呼ぶようになっていた。
「あたしはあなたこと好きだよ。でもあなたはあたしのこと好きじゃない。でもいつも一緒にいた。肩組んで歩いた。あなたはあたしのこと好きじゃないのに。」
 覗き込むような目でミチコは言った。
「わかってるくせに。」
 私の言葉に、ミチコは何も答えない。
 雪の夜は明るい。薄暗い電灯しかないこの場所でも、ミチコの顔がよく見えた。
「ミチコ、好きだよ。」
 いじらしく思えてきたミチコに何気なく言ってしまった。ミチコは何も答えない。
 ミチコは向こうを向いて、空を見上げた。少ししてまたこちらを振り向いた。
「早くそれ言って欲しかったよ。もっと早く。」
 思えば、私がミチコに「好き」といったことがあっただろうか。記憶がない。今はじめて言ったのだ。
 雪はやんでいた。積もった雪は、町のわずかな光を反射して淡く白い幻想的な空間を作り上げていた。

「あたし、お嫁に行くの・・・・・」
 すべての空気が止まった。ミチコはそれ以上何も言わない。うつむいたまままた向こうを向いてしまった。
 (追いてこい)などと言ったことはない。それでもミチコは後ろを追いてきた。この構図は、このとき私に他の言葉を選ばせなかった。私も黙っていた。
 最後にミチコが小さく口を動かしたような気がした。それが(さよなら。)、だったと私は気づかなかった。

 すすけた灰色のトンネルの中に父が消えていく。
「1時間半ほどかかります。それまで控え室でお待ちください。」
 係りの人が言う。
 お別れのとき、きっと今がそうなんだ。私は確信した。天井を見上げたが父は見えなかった。
「伯父さん、可哀相だね。まだ生きていたかったんだよね。看病のみんなに気を使ってそんなこと一言も言わなかったけど、伯父さん生きたかったんだよ。やりたいことがいっぱいあったんだもの。だから可哀相なんだよ。伯父さん。」
 私の横でミチコが言った。
「そうだな。」
 無反応のように私は答える。
「ミチコ、おやじ生きたかったんだよな。そうだよな、看病してる俺たちの前で、そんなこと言ったら、俺達滅入っちゃうもんな。もうだめだって、おやじは分かってたんだ。家族はそのこと隠してたけど、きっと分かってたんだ。だからおやじは黙ってた。いつも笑ってんだぜ、おやじ。」
「うん、伯父さんらしいね。可哀相だね。」
「そうだな。」
 天井を見上げると父がいた。笑ってた。
 私はほっとする。

 今、私の目の前に父の骨がある。その白い存在だけが私の目の空間を占める。他に何も見えなくなった。
 違和感をもっていた火葬という行為。死して後、形として存在することを許されない現実に嫌悪感を抱いていた。
 しかし、不思議なことが起こる。あれほど嫌悪感を抱いていた人の存在の骨への変化。目の前の白い存在は、私の体をぐるぐると覆うように、私に何かを訴える。その何かを理解するための道が私の前に現れる。私はその道を歩き出す。ずっと歩き出す。
 遠く先祖からの光の筋が私を迎える。人間の形として許される限られた命を全うした先祖達の光。人の形としての存在を超えたところにある、先祖からの生命の光。
 そうだ、私は気づいた。人の世に脈々として息づく過去からの導き。過去から今へそして未来へと続く生命の息吹き。それが人の世の生命の存続を約束してくれている。父も、そんな先祖たちの輝きの中で、人の世の私たち生命の息づかいを見守ってくれる。

「さようなら。」
 父に向かって小声で言う。それに気づいたミチコも
「さようなら。」
 小声で言った。
 白い瀬戸物に収められた父がいた。父の息づかいが聞こえる。霊や魂などというものが蘇るのではない。それは、まるでテープレコーダーから流れるように、現実の父の息づかいだった。父の声も聞こえた。
 上を見上げると、父が笑ってた。
 初冬とは思えない暖かい日、きっと父が作ってくれたんだと思う。
 私はほっとした。

「あの時、いくなって言ってくれてたら……。」
「えッ、なに。」
「ううん、なんでもないの。」

 帰っていくミチコの後姿を眺めていた。振り向いたミチコ。一度手を振ってまた向こうを向いた。
 私は何も言わなかった。今度何時会えるのか。昔から決めたことはない。
 帰り際、ミチコの手から渡されたメモ用紙。メールのアドレスが書かれていた。
 何をメールに書いたらいいのか。
「ミチコが好きなんだ。」 などと書いてみようか。
 できない。
 では、何を書こうか。
 (今度会える日は何時?)
 そう書こうか、今迷っている。
by corobo | 2005-06-11 14:59 | ミチコ