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ここまでお読みいただけたこと、本当に感謝いたします。

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       終章

 右手を父の頭の下に置き、左手であごを押さえた。そして、少し開いた父の口を閉じようと左手に少し力を入れた。
 血圧計がゼロを指してから三十分程経っただろうか。まだ温かい父の体に、人の体はそう簡単には冷たくはならないことを知る。
 左手に父の髭の感触が伝わる。小さい頃、髭面の父に頬摺りをして、くすぐったくて笑った。しかし、その頃の髭はもっと硬かったような気がした。
 左手の中指で父の頬をぽんぽんと押してみる。ふわふわして気持ちが良い。しかし、小さい頃はもっと張りがあったような気がした。
 左手の力を少し緩めてみる。父の口は元のように少し開いてしまう。だから私は、再び力を入れる。人は死んでからどのくらい経つと硬くなってしまうんだろう。そんなことをぼんやり考えていた。

 生きている人間と、死んでしまった人間は何時お別れをするのだろうか。よく葬儀場の人が告別式の最後のほうで「最後のお別れです・・・・・」などと言うが、その時なのだろうか。火葬場で、あの煤けた暗いトンネルに入っていく前にも係りの人が同じようなことを言うが、その時なのだろうか。

 冷たい父には触りたくない。父の息が消えたとき、反射的に私はそう思った。最後の思い出は、温かい父であって欲しかった。
 私の両手には、まだ温かい父がいる。
 お別れは今だ、そう思った。
 父の耳に幾分近づき、「さよなら。」と声を出さずに言った。それから、何も考えず、僅かの時が過ぎていった。

 病室をノックする音がした。ドアの方をぼんやり見ると、看護婦さんが深々と一礼し病室に入ってきた。
 病院では、これから父を送り出すための準備をするんだ、と気付いた。
 私は潔く、父の顔から手を離した。
 今私は父の温かい体温を感じ、そしてお別れをした。私と父のお別れの儀式はおおよそ三十分程で終わることになったが、これで十分だと思った。

 看護婦さんは小箱から小さな剃刀を出して、父の髭を剃り始めた。死んでしまったんだから、ここで髭を剃れば、後には生えてこないんだろうなあ、とぼんやり考えていた。
 すると、
「あっ、申し訳ありませんでした。」
 と、看護婦さんの声がした。
 私は驚き彼女の方を見た。
 鼻と口の間で、彼女の剃刀はわずかに父の皮膚を傷つけてしまったのだ。うっすらとした赤い色が徐々に濃くなっていく。彼女はあわててガーゼでその赤い液体を拭き取っていた。そして、もう一度「申し訳ありません。」といって深く頭を下げていた。
 その時、私は気付いた。この看護婦さんが謝ったのは父であったこと。私ではなく、彼女の顔は終始父の方を向いたままだった。彼女は死者に向かって深々と礼をしていたのだ。
 私は言い知れぬ感動を覚えた。病院には看護婦教育などというものがあるのだろうが、彼女の行為は明らかにそれを超えていた。
 何かお礼の言葉を、と考えたが、上手く言葉がまとまらず、結局何も言うことが出来なかった。彼女はまた父の髭を丁寧に剃り始めていた。

 朝の通勤電車の中で、母からの電話を受けた。父の容態がおかしいから、直ぐに病院に来て欲しいと言う。
 あわてて電車を降り、逆方向に向かう電車に乗り換えた。
 父の入院から約二年半、何度かこのようなことがあった。その度に、張り詰めた母の声、急いで病院に向かう私、そんな構図が出来上がっていた。しかし、今聞いた母の声は明らかに今までとは違っていた。張り詰めた気持ちの中に、妙に落ち着きを感じさせていた。この構図の変化に、私はこれから起こる現実を覚悟せざるをえなかった。 

 父は、顔を左右に振り、苦しそうな息づかいをしていた。
 回診に来た医師が言う。
「もうすでに苦しいという感覚も意識もないはずです。」
 私はホッとすると同時に、「感覚も意識もないはず」という医師の言葉の意味を悟らざるをえなかった。
 父の顔に近づき、「来たよ。」と声をかけた。
いつもは、「そうか、来たか。」と言う父の言葉は今はなかった。
「もう話しかけても、返事してくれないのよ。」
と母は声を詰まらせて言った。
 昼食を片付ける大きなワゴンが病室の外を通りすぎる。今日、父の昼食は病室へ運ばれてこなかった。がらがらと、ワゴンが何も言わずに通り過ぎていった。
 医師は、一通り父の状態を説明した後、「何かあったら、直ぐに来るから。」と言って、病室を出て行った。
病室には、脈拍と血圧を測る計器の音だけが残った。

私はもう一度「来たよ。」と言った。
 すると、左右に振る父の顔が私の前で止まった。意識のないはずの父の視線は、明らかに私に向けられていた。父は確かに私を見た。病と衰弱のためにうつろな父の目の奥に、確かに私への視線を感じた。
「うん、来てるんだよ。」
 私はその視線に答えた。
 ほんの二秒ほどだったと思う。しかし、父はそれに頷くことはなかった。
 これは、父の最後の力を振り絞った、私へのお別れの挨拶だったのだろう。
 再び、顔を左右に振り始めた父は、それからまもなく息を和らげ、そして静かに静止していった。

 煤けたトンネルの前に父が横たわる。そして、するするっと、父が消えていく。父の顔も、体も何もかも、その形を無くすときである。
 父の体をそのままにしておきたい。私は衝動的にそう思う。そして火葬という行為に非常な違和感を持つ。なぜ骨にしなければいけないのか。
しかし、私にはこの現実を排除する力も知恵もなかった。
受け入れざるを得ない現実。私の気持ちはまとまることなく錯乱していた。
 ところが、そんな私の気持ちを落ち着かせてくれたのは、なんとあれだけ違和感を持っていたはずの骨になった父の姿だった。理由は分からない。ただ、父の白い骨は私に安堵の気持ちを与えてくれたのだ。
 何故だろう、などと考える必要はない。
 死して尚、父は私を守ってくれたのだ。

 白い瀬戸物の器に入った父は、母に抱えられ、共に家路についた。その時私たち家族はそれぞれに平穏な気持ちに浸っていたように思う。悲しいのになぜ? と問われても分からない。平穏な何かが私たちの体に覆いかぶさっていたのだ。
 約2年半にわたる父の壮絶な病との闘いに、果敢に立ち向かった母の思い。
 それを陰で支えた妻の思い。
 遊び盛りの時間を割いて父を見舞った子供たちの思い。
 それぞれが、それぞれの思いを、白い骨になったばかりの父に向けていたように思う。
 私は、安堵の気持から次第に自分を高揚させる何かを感じるようになる。不思議な高揚感。今まで私を取り巻いていた雑念を取り払ってくれるような、そしてこれからの自分を一つ高めてくれるような、そんな気持ちの高ぶりを感じていた。

 傾きかけた日の光が、私たち家族の背中を照らしていた。父が作ってくれたのであろう、初冬とは思えない暖かな日。
 子供たちが笑う。母と妻の会話の声がする。「安堵」の空気が私の背を叩く。家族たちの緩やかな幸福のなか、私はこの平穏を壊すまいと、いつしか先頭に立ち、胸を張って歩き出していた。
by corobo | 2005-06-04 22:29 | Written Explanation

第十二章 河童のお話

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         十二

 幼児体験とは恐ろしいもので、ましてそれが親から授かったものともなればなおさら忘れられない思い出ともなる。

 河童の話が忘れられないのだ。
 
 荒川の土手の近くに家があって、家に帰る時はその土手を前方に見ながら歩くことになる。夜になると電灯のない土手は、わずかに空との間に稜線が見える程度に薄っすらと浮かんでいるといった感じで、真っ暗だった。
 父と錦糸町の江東デパートへ行った帰り道、もうあたりは夜の帳が下りていた。私達は、わずかに見える土手の稜線を正面に見ながら歩いていた。
 すると父が、
「あの土手の上に登ると、向こう側に河童がいるんだ。行ってみれば分かるが、河童は川で泳いでる。
 河童は頭に皿が付いていて、川に入っている時はその皿に水か溜まってて元気良く泳いでいるが、川から上がって皿から水かこぼれると、急にぐったりと元気がなくなってしまうんだ。
 それでな、昔、意地悪なおじさんが河童をいじめてやろうと土手に行ったんだ。川を見渡すと、河童が沢山泳いでた。その頃の河童というのは気のいい奴らでな、みんなケラケラ笑いながら泳いでいたそうだ。
 そんな河童達におじさんは、「おーい、こっちへ来い。美味いにぎり飯があるぞー。」と呼んだんだ。気のいい河童達は、おじさんを疑うこともなくぞろぞろと土手に上がってきた。
「さあ食べろ。」と言っておじさんは小さなうつわを何個も差し出した。でも、そのうつわにはにぎり飯など入ってはいなかったんだ。ただの石ころが詰まっていただけだった。しかし、暗いから河童にはそれがよく見えなかった。
 おじさんは、「もっと顔を近づけてにぎり飯をよく見ろ。」と言った。
 河童達は喜んでそのうつわに顔を近づけたんだ。すると、河童たちの頭の上の皿から水がポチャッとこぼれてしまった。さあ大変だ。河童達はどんどん元気がなくなっていった。
河童達はおじさんに、「どうか皿に水を入れてください。」と頼んだんだが、おじさんはそんなことはしなかった。おまけに悪がしこいおじさんは、元気のなくなった河童の皿を次々に割ってしまったそうだ。
 皿のなくなった河童は、水に戻っても水をためておくものがないからどんどん弱っていって、沢山の河童が死んでしまったそうだ。
 わずかばかりの河童は逃げて生き残ったんだが、そんな河童達はもう人間を信じることはなくなった。
 というわけでな、河童という奴はもともとはいい奴だったんだが、おじさんにいじめられたおかげで、それ以後は怖い河童になってしまった。
それからというもの、夜土手に人が来ると、水の中から手を出して、その人の足を引っ張って川へ引きずり込むんだそうだ。
 ほら、見てみろ、今土手は暗いだろう。こんなに暗いときに土手へ行けば、河童がおまえの足を引っ張るかもしれない。これから行ってみるか。」
 と、真顔をしながら話したのだ。
 そもそも、夜の帰り道では、真っ暗な土手を見るのが怖くて土手から目をそむけて歩いていた私である。この話は、痛烈に怖かった。
私は、父の手をしっかり握って下を向いたまま早足で家へ急いだのだった。

 私は今でも、夜土手へは行けない。河童が出ることはないだろうと、ようやく分かってきたが、それでもゾクッと来るほど怖いのだ。

 実はこの話、私の息子にしたことがある。丁度今住んでいる直ぐ近くに江戸川があって、やはり暗い土手があるからだ。
ところが、息子らは「河童なんているわけないジャン。」とばかり、一笑にふされてしまったのである。
 「この餓鬼ども、こまっちゃくれやがって、とんでもねえ野郎どもだ。」と怒ってみても始まらない。よくよく考えると、私の話し方が悪いようなのだ。
そして、父の話の「リズム」が話を面白くさせるのだと気付く。もっと修行せねばと思うこの頃なのだ。

 さて、父と私の思い出話も更に辿れば限がない。ということで、そろそろ一区切りつけようと思うのだが、最後にこの本の「題名」について少し説明しておこうと思う。
 当初私は、「私の始末書」という題名を考えた。始末書とは、「何か悪いことをした場合に、事実の経緯・顛末を書いて上司または官に提出する文書」、更に「詫び状」と辞書にある。書を選ばなかった私が父へ始末書を書くとすれば、ぴったりな題だと思われたのだ。
しかし、書き進むにつれて、どうも私と父との関係はこれには当てはまらない要素があるのではないかと思いあたった。
 父と私との関係を解き明かすとき、確かに「書」という存在は重要なポイントになることは確かなのだが、それよりもっと大切なものが二人の間の関係解明のカギとして存在するようの思えてきたのだ。
 父と私は、非常に仲が良かった。そして、二人はそれだけで幸福だったと思えるのだ。なぜ仲が良かったかというと、二人はあるところで非常に似ていて、その似ているところが共感できて、二人の会話はその似ているところだけで交わされ、互いの会話に気を使うことがなかった。非常に安心して話せたし、なにを話しても互いに相手を傷つけるなどということを考える必要はまったくなかったのである。このような二人の間には、確実に幸福感が存在していて、それはかけがえのないものだった。
 予備校時代に私が見つけた「角帽」、私は大学入学後実際に買っている。人にそのことを言えば、「なんてバカのことを」とか、「面白いことするね」とか、せいぜい「まあ、良いんじゃない」とか言われるのがおちだった。しかし、父に至っては、角帽を見せると、興味深そうに角帽を手に取り、おまけに実際に冠って見せて「どうだ。」などと言うのだからこれはたまらなく感激するのだ。
 このように、父と私の個性が共感し、だからこそ有無を言わず喜べて、会話も弾むのである。
このように考えると、私が父に「始末書」を書くというのはどうもおかしいような気がしてきた。
しかし、父と私の間に「書」は歴然として存在していたのは事実であり、書を選ばなかったことへの申し訳なさも一部にはあるわけで、そのことについての詫び状はやはり書くべきだと考えた。
 一方、個性の共感するところの父と私の楽しい生活というものも二人の大切な要素である。

 始末書は、英語辞書を引くと「Written Explanation」と出てくる。その内「Explanation」は、始末書に相当する「釈明、弁解」という訳の他に「説明、解釈」という意味もある。とすると、私の父への詫び状の部分は前者の訳に、二人の生活の思い出の部分は後者の訳に当てはまるのではないかと考えた。少々個人的こじつけではあるが、この本の中だけの私の新英語解釈として作り上げても良いではないかとばかり、そう決めてしまった。
 というわけで、「My Written Explanation」と題したこの本には、父に対する私の始末書という部分と、父と私の奇妙で愉快な思い出話という部分が含まれるのである。

 父が死んでしまってもう直ぐ一年が経つ。これから父のいない世界が一年また一年と付け加えられていく。私にとって、父との思い出は何時まで経っても消え去るものではない。しかし、活字の形で思い出を残すのも一つ意味があるように思えてペンを取ったのである。
 決して消えることのない思い出を、更に活字で念を押そうと思ったのだろうか。その辺のところはもう記憶にない。
by corobo | 2005-05-29 23:34 | Written Explanation

第十一章 赤鉛筆

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        十一

 大学時代は、平々凡々といったところであった。勉強は相変わらず、ふらふら、だらだらであったが、理系というのはそれなりにカリキュラムが厳しくて、卒業すれば、私などでもそれなりの勉強はさせられるようである。
 というわけで、私は、卒論を小説風に書いて、ニヤニヤと先生に見せたら、「なんだ、これは!」と怒鳴られたほかは、まあ逆風も吹かず、楽しく学生生活を送ったといえるだろう。

 就職も決まって、卒業式も終わり、私の一人暮らしも終わって、自宅へ帰ることになった。
 私の部屋には、小学校時代からの教科書、参考書などがまだ捨てることもせず残っていた。これから社会人となるということを一つの区切りに、これら教科書類を片付けることにした。
 小学校時代、中学校時代、高校時代と順繰りに片づけていった。
 懐かしいなー、と思えるものもかなり出土してきた。
 そんな片付け作業の中で、ふと大学受験のことが思い出された。
 オイルショック、そして、文系から理系への変更。理系への変更の際の父の理解、そして変更すること自体の不安。そんなことが次々と思い出された。

 受験用の月刊誌に旺文社の蛍雪時代というものがある。いわゆる受験情報誌であるが、その十月号は各大学を紹介する特集号であった。おおよそ三乃至四センチはあるであろう分厚い本の見開き一頁を一校が占める構成になっていた。
 これは懐かしいと、ぱらぱらとページを捲っていった。偏差値の高さに受験をあきらめた大学、東京大学の頁は見ることもせずに通り過ぎたのだろう皺一つなかった。角帽にあこがれた早稲田大学、滑り止めにどうかと見つけた出した名も知らぬ大学、などなど、あのときの情景が懐かしく目に浮かんだ。更に、頁を捲っていった。
 すると、二三箇所、角が折られた頁があるのに気付いた。頁の角を折るという習慣のない私であるから、あれ、一体これは何かと思い、その頁を捲ってみた。

 私は、はっとして目を見開く。
この頁を開いた瞬間、私は言い知れぬほどの切なさを感じた。父が私に与えた「自由」、それに対する父の苦悩、葛藤、そして父の壮大な私への愛情が、その頁から流れ出てきたのである。
 折るはずのない頁、使った覚えのない赤鉛筆の線が、その頁の大学に記されていた。

 書道科のある大学であった。
 決して口には出さなかった、私の書道科への進学。私は、父の「自由」を満喫しすぎていたのであろうか。
 父は確実に望んでいた。私の書道への道。

 時が経ち、私の心に「もしもあの時に戻れたら」などという気持ちが生じることもあった。
父は、将来、人を教えるほどの意思のある者だけを教えると言い、決して手習い程度の人たちに書を教えることはなかった。そんな父である、自分の進んだ道を安易に放棄して書の世界に戻ろうとする私を許すとは思えなかった。
 ならば何時、書の世界に戻れるのか。私はその答えを探した。しかし、あるとき見つけた答えも、僅かの時の流れの後に消えてしまい、また別の答えを探し出す。探り出した答えの誤りに気付き、また違う答えを探す。そして、また消えていく。私は、父の赤鉛筆の線を見つけてから今まで、その答えを探し続けたのである。

 父は、私が大学を出ると直ぐに結核を患い、清瀬の結核療養所に一年ほど入院したことがある。週末許される自宅への外出の後、私は毎週父を清瀬まで車で送った。その時父が、「退院した後には自分の書に対する思いを雑誌の形で世に啓蒙したい。」と、熱く語っていたことがある。
 この雑誌は、後に実現することになる。
 『学書階梯』と名づけられたその書道雑誌は、発刊の辞に「五年、十年あとに、読者の中から指導者として相応しい人が次々と世に出て、新風を築いて欲しいと念じている。」と記し、父の書の理論と実践と夢を乗せて世に旅立って行ったのである。

 自分の書に対する思いは「主に各号の巻頭言に書くつもりだ。」と父が言っていたのを思い出す。
 父の死後、私は学書階梯の巻頭言を読んでみる。
 小学生時代父に教えられた、「線のこと」、「渇筆のこと」、「気韻生動のこと」、「字外の筆のこと」などが父らしい「リズム」で述べられていた。
 そしてどんどん読み進むうちに、私は驚くべきことに気付く。
父の文章の中に、父の声が立体的に、色濃く、リズムとともに蘇ってきたのである。
思えば、日々の暮らしの中で、父が笑い、父が語り、父が怒る、そんな父の全てが父の文章にリズムとなって描き出されていた。
 これは、父の霊や魂といったものが私に何かを伝えるといったことではない。父の声が、まるでテープレコーダーにでも録音されているかのように具体的に聞こえるということである。言葉で言い表すのが実に難しいのであるが、実際の父の声なのだ。
 私は、この声の源が、父の言う「リズム」にあると思う。気韻生動、まさに万物が持つ、美しく、可憐で、輝くようなあのリズム。そんな父の「リズム」が、父とともに蘇ってきたのである。

 私は、父が悟った「リズム」を、「感性」と結びつける。
 私は、父の文章のリズムを感じ取ることができた。これは確実に父と「感性」を共有することが出来ていたことを意味する。父は、私が今まで気付かなかったその「感性」の共有を、すでに感じ取っていたのだろうと思う。書を選択しなかった私に、死の間際まで壮大な愛情を注ぎ得たのは、父が私との「感性」の共有を確信していたからではなかろうか。
 父は、その感性を書道という芸術に具現化した。私は、書道という道を選ばなかったが、その源のところで間違いなく「感性」を父と同じく持ち得たのである。
 この「感性」、父と私の生活の中で、父のリズムがその場の空気を震わせながら私に感じさせる父の全てなのだ。

 字外の筆は、まさにリズムである。そして、あの書く前の身の動きは、通常の日常生活にも現れていたことを父は気付いていただろうか。

 「物事の前提となる事項をひょいと飛び越えてある重要な決定をする。」ことや、
 「母の制止も聞かず先生に尋ねに行ってしまう、あの理科の実験の試験問題」のことや、
 「僅か10円の入場料を払わず、裏の鉄柵を潜って美術館へ入り込み、おまけにウンコを踏んでしまい、更にそれが母との初デートのときだった」ことなど、全てが父のリズム、即ち感性となって私を共感させるのである。

 父は、小学生の私に、文章の読み方を教えたことがある。これも、リズミカルに読む。どんな文章も、まるで詠うように読む。これも私にリズムとして共感させる。もっとも、このような読み方を学校でするのは恥ずかしいからと私は父に訴えたのだが、「そんなことはない、やれ、」と嗾けられたのには困ったのであるが。
 この「リズム」、さらに挙げれば限がない、つまりは父の全てなのである。

 父は、「リズム」即ち、「感性」という豊かな大地を私に与え、私はそれを意識することなくぬくぬくと自分の幹を延ばしていったのだろう。
 この「感性」は、父の遺伝子から私へ、そして私の誕生後には、父の織り成すさまざまな動き、つまり「リズム」により私に引き継がれていったのである。
 私は、父からもらったこの「感性」を、自分の「個性」として大事に育てて生きたいと思っている。
 生活において、そして仕事においても。

 普通出来ないこと・・・理科の問題を学校の先生に聞きに行った父のように、
 普通しないこと・・・10円払えば入れる美術館の裏からもぐりこみ、おまけにウンコを踏んでしまった父のように、
 すべきこと・・・ひょいと何かを飛び越えて重大な結論を出してしまう父のように、
私は生きて行きたいのである。

 私はここでも書を選ばない。そんな私を父は許してくれるだろうか。
「感性」の共有、私はそれだけで幸福だ。父も同じはず。だから許してくれるはずなのだ。

 ただ願わくは、父が私の前にオバケになって現れて、
「おまえが決めたことなら、それでいい。」
 と言って欲しい。
 夜お墓の前っていうのは怖いから、昼間、銀座の松屋あたりで待ち合わせでもしてくれたら嬉しいのだが。
by corobo | 2005-05-19 00:02 | Written Explanation

第十章 お話

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          十

 大学は、神奈川県の相模原にあるので、家からは通える距離ではなかった。ということで、私は下宿をすることになった。
 下宿をするということは、家を出るということで、私が家にいなくなるということである。引越しが近くなると、なぜか家族みんなが何やかやと私の部屋へやってきては、ああでもないこうでもないと何がしかの話をしては帰っていくといったことを繰り返すようになった。家族にとって私がこの家からいなくなることは寂しいことであったのであろうが、私はそんな家族の姿を喜んでいたふしがある。子供の特権として、家族のそんな姿を見るにつけ、愛情の中にどっぷりと浸かっていられる自分に満足していたのだろうと思う。

 ところで、その時の話の中で、父と母がした実に愉快な話があるので、皆さんに紹介させていたきたい。

 『母の話』

 それは、父との初デートの時の話である。

「上野の美術館へ行こうと思うんですが、いかがですか。」
 父は、母に問いかけた。
「はい、それでいいです。お任せします。」
 と、母は恭しく答えた。そもそも母は、それまで芸術などというものには縁がなかった。小学校の教師であったから学生時代ピアノや絵など少々習ったことはあったが、それだけである。母の周りにもそれまで、芸術に志すような身内は一人もいなかった。というわけで、母には父が、まるで別世界の高貴な人のように映ったと言う。
 上野駅の公園口を出て五分ほど歩くと、美術館の入り口が見えてきた。赤いレンガの建物が母の目の前に広がった。広い階段を二十段ほど上がった所にある玄関の向かって左には、白地に大きく「全日本書道展」という文字が描かれていた。
 母は緊張したと言う。父に作品を説明されたとき、自分はどう答えよう。その時、どんな顔をしていればいいんだろう。口の両端にほんの少しだけ笑みを浮かべ、「素晴らしいですわ。」と言えばいいのだろうか。いや、そんな作為的なことは止めよう。素顔のままでいいではないか。
 芸術の心など持ち合わせない母には、この先何が起こるのか、不安でたまらなかった。
 二人は階段の前まできた。さあ、これからだ、と母は身構えた。
 すると父は、その階段を昇ることはせず、体の向きを右に変え、美術館の裏手の方向に歩き出した。母は、一体どうしたのだろうと思った。しかし、その答えは直ぐに見つかった。そうだ、きっと美術館には芸術家専用の楽屋のようなものがあって、その入り口が裏手のほうにあるのだ、と思った。
 二人が右に向かって歩いていくと、美術館の丁度角にたどり着いた。そこを左へ曲がる。もうそろそろ芸術家専用の入り口があるのだろうと母は思った。
しかし、進んでも進んでもその入り口は現れなかった。それより、だんだん雑草が妙に増えてきて、その雑草の高さも段々伸びてきた。父はその雑草を、がさごそ、がさごそと掻き分けて歩いていった。母も、少々スカートを捲りながら、なんとも女らしくない恰好で、がさごそ、がさごそと父の後に続いた。
 父を疑うというわけではなかったが、どうも変だと母は思い出した。その雑草の先には、あの憧れの芸術家専用の扉などどこにも現れず、あるのは美術館と外界を隔てる鉄の柵だけだったからだ。
 すると父は、突然立ち止まり、母のほうをニヤッと見て、鉄柵の方を指差した。
 父の指差した鉄柵は、丁度そこだけ押し曲げられていて、人が一人分ほど通り抜けられるほどのスペースが出来上がっていた。
 (ひょっとしたら、)と母は思った。しかし、その(ひょっとしたら、)は、その後直ぐに、幻想の入る余地のないある確定した現実へと母を導くのだった。
 父は、平然とした顔をして、
「ここなんですよ。」
「えッ、何ですか。」
「ここなんですがね、穴が開いてるでしょう。そうすると、ここを通ることが出来るわけです。ですから、私もあなたも、ただで美術館に入ることが出来るんですよ。」
 母は、首が傾げかけるのを必死でおさえ、平静を装い、父に尋ねた。
「どうやって入るんですか。」
「もぐるんです。しかしですね、この鉄柵にはたくさんトゲがありますから、洋服を切ったりしますから気をつけてください。」
 そんなことより、怪我でもしたら大変ではないか。そう思ったが、ここでも母は平静を装い。
「それじゃ、お先にもぐってください。」
 そんな母のリクエストに、揚揚とした態度で、父はそこをくぐりだした。
 見事にすり抜けた父は、
「さあ、今度はあなたの番です。いいですか、先ず片足を入れます。」
 (そんなことは分かってるわよ)、と言いかけたが、やはりここでもぐっと抑えた母は、仕方なく父の言うとおりにその穴に片足を入れた。
 父の穴抜けについての一頻りの解説の後、母はやっとのことでその穴をすり抜けた。
「上手い上手い。」
 父が言った。
 美術館の入場料は確か10円であった。当時としてもそれほどの金額ではない。にもかかわらず、そして初のデートであるにもかかわらず、それを惜しんでこんな鉄柵の穴をくぐらせる父は一体何を考えているのだろう、と母は思ったそうだ。
 しかし、こんな母の失望は、まだ序章に過ぎなかった。
 
 鉄柵を無事すり抜けた母を見て、父は、
「よく出来ました。」
 といって、拍手したという。
(よけいなお世話よ。)と口に出さず呟く母の気持ちを知りもせず、父は元来た方向、つまり美術館の玄関の方へ向かって歩き出した。母には、もうあの芸術家専用の扉の夢も消えてしまった。
 母は、再び雑草を掻き分け進んで行く父を後ろから恨めしく眺めていた。
すると突然、ヌッとした感じで父が立ち止まり、そのまま固まってしまったかのように動かなくなった。十秒ほど経っただろうか、父は今度はヌワッといった顔をして母の方を振り返った。
 母は、あの鉄柵のすり抜けの恨みを何時晴らさんかとばかり懐疑心の塊となって怒っていたのであるが、振り返った父の顔が、もうどうしてよいか分からない、何とかして欲しいというような悲しげな顔であったから、何とかして欲しいのならまあ何とかあげようかという気分になってしまったと言う。
「どうなさったのですか。」
 と、優しげなふりをして尋ねた。
「あ、あのですね。ウンコのようなもの、いや、これは確かにウンコだと思うんです。踏んでしまったようです。」
 父の困惑に、母の怒りが衝突し、激烈な火花となって美術館の裏手に上がったのを、気付いた人はいただろうか。
 踏み出した父の靴の底にこってりとへばりついたウンコ。母は、どうしたものかと悩んだが、ここは女の優しさなどというものを形だけでも見せておかなければ後に世間体も悪かろうと、そのウンコを靴の底から剥ぎ取る作業を買って出たそうである。
 「いいですよ、いいですよ。」と言って、自らウンコの剥ぎ取りを始めた父を見て、母はホットしたそうだ。

 その後、母はほとんど口を利かなかった。もうこの人に嫌われてもいい、というよりも、嫌って欲しいと思ったそうだ。
 しかし、父は口を利かなくなった母を、無口で清楚な人だと勘違いし、すっかり母に熱をあげてしまい、以後、
「また、何処かへご一緒したいものです。」とか、
「銀座の三越の裏にある三河屋にでも行って、ステーキでもいかがでしょう。」とか、
「湯島天神の縁日は楽しいですよ。」とか、言われるもので、ウンコの臭いも
時の流れで薄れるように、母の怒りも薄れていって、三河屋も、湯島天神も、
それから、銀座も、新宿も、渋谷も、いろいろ誘い出されてしまったのだという。
 思えば、あの鉄柵すり抜け事件と、ウンコ事件を除けば、父はきわめて優しく、
二人の恋愛時代を楽しく導いてくれたそうだ。
というわけで、この二人、その後晴れて結婚をすることになったのでありました。
 おしまい。

 『父の話』

 私の部屋に、ヌゥーッと現れた父が、唐突に、
「おまえ、これから一人暮らしをするんだから、どうしても教えておきたいこと
がある。」
「えッ、なにを?」
「うん、それはな・・・タワシだ。」
突然「タワシだ」といわれても訳もわからずいると、
「うん、そのタワシだが、これを使うと強くなる。」
「なにが?」
「うん、少し痛いがな、これでごしごしこするんだ。」
「それで、なにを?」
「うん、おまえのあそこをだ。分からんかなあ。」
 「分からんかなあ。」と言われても、父の言う“あそこ”が“あそこ”のことを意味するとは直ぐには分かりかねた。
 「だからな、“あそこ”が、強くなければいけない。それで、鍛えるというわけだ。」
やっと私には、父の言わんとすることが掴みかけてきた。少し顔を赤らめた私にかまわず父は続けた。
 「熱湯をかけるという方法もあるらしいが、これはいかん。熱くてたまらんから止めたほうがいい。と言うわけで、タワシが一番だ。いいかよく聞けよ、世の中にはたくさん女がいる。そしておまえは一人暮らしになる。そうすると、おまえが自分の部屋に女を連れてくることも自由に出来る。だから、・・・ここからが問題なんだ、・・・子供をつくってはいけないわけだ。それだけは気を付けろ。相手の女性を不幸にする。分かったな。」
 と一気に言うと、そそくさと部屋を出て行った。
さて、この話の内容の分析は非常に難しいのであった。どうも父は、一人暮らしをいい事に、自由のうちに子供などをつくってはいけないということを、私に忠告しているようには思えるのだが、それと、あの「タワシ」をどう結びつけることが出来るのかが疑問なのである。
 後に母に聞いた話であるが、どうもこの時の父の話は、父の最初で最後の一回きりの私への性教育であったらしい。であるから、父としては大真面目だったのであり、一人暮らしを始める私への社会教育でもあったようだ。
 それは納得できたのだが、あの「タワシ」と「子供」の間の溝が埋まらない。埋まらないとなると、どうも腰の据わりが悪いというか、落ち着かなくなる。何とか事の真相を確かめたくなるのが人の常というものである。
 母は、父の話を性教育であり、社会教育であるとまで言った。とすると、この奇妙な性教育のことを、父は母に語っているようである。それに、この話をするときの母の目つきが、どうも据わりが悪くきょろきょろと動くのを私は発見していたのだ。どうも、真相解明の鍵は、母が握っているように思えた。
 早速私は、母に蛍光灯の光を直接当て、カツ丼を注文して、私が端を割り、「さあ食べなさい。」と言って母を安心させた後、あの話の裏に一体なにがあったのかと問い詰めた。しぶとい母であった。容易くは口を割らない。私の尋問は、連日に渡って続けられた。
 口の堅い母であったが、私の必要な蛍光灯攻めにより、尋問を始めて五回目の夜、ついに母は事の真相を話し始めた。
 「あのね、お父さん、あなたにあの話しした後、お母さんのとこへ来てね、「失敗してしまった。」って言うのよ。だから「どうしたの?」って聞くと、一人暮らしを始めるあなたに性教育をしておかなければいけないと思い立ったっていう事は、あなたに話したわよね。で、やっぱり一番大切なことは、いくら好き同士だからっていっても、学生のうちに子供とつくってしまっては相手の女性に申し訳ないだろうということでね、そのことを注意しとこうと思ったんですって。」
 うんうん、そこまでは分かっている。しかし、「タワシ」との因果関係はまだ謎である。母は続けた。
 「それであなたが変だなって思ってること、「た・わ・し」のことね。実はお父さんも謎らしいの、なぜタワシが登場したのか。ふっと思い立ったんだって言うのよ。それでね、あの時お父さんが思いついた話の筋というのはね、なんだか変な筋なんだけどねー、まあいいから聞いてね。」
 ついに事の真相が暴露されようとしていた。
 「あのね、つまり強くなれば冷静になれないって言うのよ。あなた分かる? お母さん恥ずかしいわね、こんな話するの。」
 少し顔を赤らめた母だが、
 「あのね、つまりね、その最中にね、事の前後が分からない程燃え盛っちゃあだめらしいの。で、強ければ、その時間も長くなるわけだから、その間いろいろ冷静に考えことが出来るらしいのね。そうすると、誤って・・・・なんてことはなくなるって言うのよ。あなたわかる?」
 「分からないよ、そんなこと。」と言えるほど私は純情可憐な少年ではなかったから、「分かったから、早く先を聞かせろ」と尋問の手を緩めなかった。
 「でも、よくもまあ「タワシ」なんてものに結びつけたって、あなた思わない? 変でしょうお父さん。変なんだけど、気持ちは分かるわね、お母さんにも。つまり、性教育などというものを親が子にするのってこれは非常に照れるのよ。それでね、照れると、精神状態も錯乱状態になっちゃって、それで「た・わ・し」が出てきちゃったのよ。お父さん、「もっとましな例があったはずだ。」って言ってたわ。まあ、でもこれでいいんじゃない。照れて、錯乱状態で、「タワシ」よ、お父さんらしいわよね。まあ、それはいいけど、お父さんの言わんとした事は分かってるでしょ。一人暮らし、女性のこともあるけど、お母さん他にも心配なことがたくさんあるわ。本当に気を付けてね。」
 と言った。
 父が照れる。以前にもあった。高校受験のとき、理科の教師に重要な問題を尋ねてきたにもかかわらず、私には「当てずっぽうだ。」と言い張ったこと。あれは父の照れだったはず。
 今も、父は照れた。父の思考回路の実に愉快なこと。これは痛快である。
 私は、父独特の思考回路とそれに追随する照れの構図をユニーク、いやもっと高貴な言葉で、「感性」と呼ぼう。そんな父の「感性」に、私は知らないうちに引き込まれていく自分を感じ始めているのであった。

 ところで、私の一人暮らしであるが、父のこのような懸命の教育もあって、というよりも、風呂もろくに入らず、掃除もせず、インスタントラーメンばかり食らっているような私の部屋に女性が来ることもなく、汚い私に女が寄り付きもせず、必然的に女性を悲しませるようなこともなく、大学生活を無事終らせることが出来たのでありました。
 おしまい。

 父と母のお話各一編、いかがでしたでしょうか。
 と大手を振って紹介したことを喜びたい気持ちではあるが、これらのお話、大筋では真実だが、かなり私がデフォルメしている。面白おかしくしすぎたふしがある。
 そして、これらのお話は、母の綿密な検閲を受けた結果、
 「公表してはいけません!。」ときついお叱りを受けている。
 ではなぜ公表してしまったかというと、せっかく書いたものをこのままお蔵入りもさせるのももったいないと思う気持もあるが、実はこのような父母の姿こそ私が求めた最愛の父母だったりもするからである。母にとっては、世間に対する一応の面目というのもあろうが、ここは愚息私の我侭を聞いていただき、公表を許していただきたいのである。
 ちなみに、母の話の中の(鉄柵すり抜け事件)と(うんこ事件)があったこと自体は事実である。それから、父の話の(たわしの効用)自体の講義があったことも事実である。しかし実際は、あっさりしたもので、ほんの数分そんな話をしただけで終わっている。しかし、息子から見てこのような話は実に愉快なのである。鉄柵、うんこ、たわしのお話は、ほんの数分の会話とて腹を抱えて笑えるのだ。このような会話こそ、父も母も外ではできない私と親子水入らずの愛情表現ではあるまいか。私にはそう思えるのである。
というわけで、そんな愛情に満足しつつ更にその愛情を高めるための私のデフォルメであるということで、これらお話をここに公表させていただくことにした。
 ここまで説明することが父母への最大の謝罪と思っていただけたなら幸いである。

 ところで、父の行動、つまり鉄柵すり抜けのアイデア、そしてその後のうんこ、さらに、たわしのお話、いずれも何か人として通常は考えるであろう何か重要なポイントを抜かしてまっているようには見えないだろうか。私にはそう見える。
父は何かを決めるとき、前提の何か重要なポイントをひょいと飛び越えて結論に到達するところがあると私は見ている。
 書の世界で、父を成功の道へ導いたのは、この(物事の前提の重要なポイントをひょいと飛び越えてある決断をする)、ということが大きく貢献しているように思えてならない。
ある決断をするときに、物事を分析しすぎると、決断が出来なくなることがある。その分析の結果が、成功の感激よりも、失敗の恐怖を先に立たせるからだ。
 
 緻密な分析より前に、父には先ず「夢」が広がる。そしてその夢に向かって遮二無二努力する。胸一杯に広がった夢と、遮二無な努力が合わさるものだから、例の物事の分析をする余地はきわめて小さくなっていく。父をそんな人と考えるのは間違いであろうか。当のご本人は、去年死んでしまったのだから、ここのところの真相を聞くすべはない。しかし、愚息私は、それをいいことに勝手に想像することも出来るのだ。
 そこで、今、これらお話の中の父の「妙な行動、言動」について、私は最終的な結論を勝手に出すことにした。

 うん、やはりそうだ。
父は何かを決めるとき、ひょいと何かを飛び越えて結論に到達する人間なのである。そして、夢へ向かって突き進んだのだ。

 なぜ断言できるのか? と人に尋ねられたら、こう答えよう。
「だって、僕もそうだから・・・・・うつってしまったんですよ。」ってね。
by corobo | 2005-05-08 20:08 | Written Explanation

第九章 予備校

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 予備校というところに通うようになるのは、高校二年の夏休みからであった。
 受験勉強という厄介なものに嫌悪感をあらわにしていた私であるが、この予備校というところに通うということには、ある意味新鮮さを感じていた。
 当時の大学生は、鞄というものは持たず、布張りのコクヨのバインダーに教科書を挟み、挟みきれない教科書はバインダーの外で十字のベルトで止めて、それを小脇に抱えて登校するのである。これが恰好よかった。
 早速、コクヨの布張りのバインダーを買ってきて、それに予備校の教科書を挟んで登校するのである。バインダーに挟みきれない教科書は、表紙を内側にして、予備校だと分からないように十字のベルトで縛った。
 予備校は、私服であったし、高校二年ともなれば、ことさらこちらから高校生ですと言わない限り、恰好だけは大学生になりきれた。
 コクヨのバインダーを抱えた大学生モドキは、さっそうと予備校の門を叩いたのである。
 ところが、そうそう世の中格好だけでは生きてはいかれない。予備校の最初の授業で、ギョッとさせられる事実に遭遇してしまうである。
それはなにかといえば、授業時間の長さだった。高校では一時限が五十分であるのに、予備校はなんと一時間半もあったのだ。
 長い授業に退屈するのはもちろんなのだが、もう一つ私にとてつもない苦痛を与える現象があったのだ。
当時の予備校の椅子は、今のような折り畳みの若干丸みを帯びた座りやすい椅子ではなく、単なる木で出来た長椅子である。やせていた私は、この長椅子に長く座っていると、左右のお尻の真ん中辺りの骨が直接平らな木に当たり、これが深々と痛むのだ。授業も億劫であったが、このお尻の痛さに、一時間半という授業時間はきわめて長すぎた。
 というわけで、予備校通い、あの憧れのコクヨのバインダーを持つことはできたが、長椅子が私を予備校嫌いに仕立ててしまったのである。
 しかし、予備校をやめる理由が、「お尻が痛い」というのも恰好が付かない。それで必死に我慢していたのである。
そんなある時、私は名案を思いついた。
それは、座布団である。座布団を敷けば痛くないではないか。というわけで、背に腹は変えられぬと、布張りのコクヨのバインダーを小脇に抱えるのは諦めて、座布団を抱えて予備校へ登校することに相成った。
 ところがその名案も、どうも集団生活には問題を残すらしい。座布団を敷いて快適に勉強をしている私の後ろあたりに、何か「迷惑だー」と言わんばかりの雰囲気が漂ってくるのである。咳払が聞こえたり、私の背中をノートの角のような感触が突っついたり、しまいには私の椅子を後ろから蹴飛ばす輩まで出始めた。どうも座高が高くなりすぎて、後ろから黒板が見えなくなるらしいのである。さすがに私も、これはまずいのではないかと気付いた。
 しかし、座布団を使わないとやはり痛い。で、考えたあげく、私は教室の一番後ろに腰掛けるという名案を思いついた。これはしめたと思ったのであるが、ここにも問題があった。それは、私が通っていた予備校はいわゆる自由席であって、座りたい席があっても、そこが他人に使われていれば、もう座れないのだ。毎回、そこの座っている人に、「僕は、お尻が痛くなるので仕方なく座布団が使いたいわけで、でも前の方だと、後ろの奴が非常に迷惑がるので、一番後ろの席なら座布団が使えるので、だから代わってください。」などと頼めるわけもない。
 仕方がないので、私は、授業開始の一時間前には教室に入って一番後ろの席を確保するという行為をしなければならなかった。まったくこれにはまいったものである。もっとも、毎回一時間も早く登校する私に事務の綺麗なお姉さんが、「山口君て熱心ね。きっと受かるわよ。」などと声をかけてくれるのが唯一の慰めではあった。
 お尻が痛いとか、座布団とか、早通いとか、それから座布団のためにコクヨの布張りのバインダーが使えなくなったとか、なんとも勉強以外、いろいろなことが起こった、波乱万丈の(というほどでもないが)、予備校通いでありました。

 高校二年の二学期の終わり頃からだったと思う。学校で公開模試というのを二ヶ月に一度受けるようになった。学校が仕組んでくれるので、私たち生徒が何も考えなくても受験できたのは便利には便利だったのだが、反面、休むと先生が直ぐに飛んできて、
「なぜ休んだ。」だの、
「今出来ないと思っても受けることが大切なんだ。」だの、
「集中力を養うための練習なんだ。」だの、
「一度でもいいから高い点を取ってみろ。その後は必ずやる気が出る。」だのと言うものだから、このような先生のお言葉を聞くのがいやで、私はしぶしぶ公開模試を受けていたのだった。
 受けるたびに向上していくのならいいが、私の場合は受けても受けても何も変化しなかった。
 数学と、理科が足を引っ張るのである。何とか国語と英語で挽回するのだが、社会がまるで出来ない。というわけで、私の成績は二勝三敗で負け越しなのだ。
 勝ち越すには、もう一科目良い点を取ればいい。「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」などと気軽に考えてみるのだが、天神様の言うとおりには行かないのであって、それで仕方なく一生懸命勉強しなければならないと気付くだけは気付くのであった。

 私は、国立を志望していた。なぜ国立かというと、当時私立は三科目受験がほとんどで、文系が国語、社会、英語、理系が数学、理科、英語であったから、いずれを選んだとしても私の不得意科目が入ってしまうのである。これは困ったと思案に暮れていると、名案が浮かんだ。
国立大学ならばこれら五教科全部が試験科目に含まれる。出来ない科目はあるものの、全体として少しは救われる。なんとも打算的な名案ではあったが、私立よりは何とかなりそうだ。そう思ったのが、私の国立受験志望の理由である。
 そして、何がやりたいかではなく、どこに受かりたいかで大学を探したものだから、私の将来の専門は多岐にわたった。先生はそんな私をつかまえては、「おまえは、いろいろやりたい事があっていいな。マルチ人間。すごいなー。」などと、いやみを言っては立ち去っていくのだった。

 私にとって書道は、高校に入ると、一週間に2コマある選科の授業のみとなっっていた。父に直接教わる書道は、もうすっかりなくなってしまっていたのである。
しかし、これは父の「自由」の教育だと思えたし、そのこと自体特に不満もなく時が過ぎていった。
 大学の選択肢の中には、書道のできる学部も含めていた。実技が要求される大学もあったが、三年生になって一年みっちりやれば何とかなると思っていたのである。学校の書道の授業もそれなりにはきちっと受けていた。
 書道の先生は、学芸大の書道科を出ていた。聞くと、当時教授であった父の師匠に直接書を習ったと言う。中学時代、私の書道の家庭教師のみち子先生もそうだったように、芸術家の系図が同じだとこうも字が似るものかとあらためて思ったものである。であるからこの書道の先生の字と私の字も似ているのであって、これが理由かどうかは知らないが、私はこの先生に受けがよかった。私も気をよくして、書道の授業にはサボることもせず、出席してきた。週に2コマ程度の練習で腕が上がるとは思えなかったが、自分としては、下がることはないだろうと考えていた。
 というわけで、書道科のある大学というのは、私の大学の選択肢の中でも上位に含めていたのである。

 ところが、私、というより当時の受験生にとって、非常に悲しいというか、世の中を揺るがす大事件が起こったのだった。
 オイルショックである。
 第四次中東戦争、そしてアラブの石油産油国が採った石油戦略により、わが国産業は大打撃を受けることになる。その結果、それまで続いたいわゆる高度成長時代が終わり、わが国は長期不況時代へと移行していったのである。
 さて、このオイルショックが、どのように受験に影響したかというと、大学の難易度等、大学自体には何ら変化はなかったのだが、受験生の学部選択に大きな影響を与えたのだ。
「文系は、就職が厳しい」と、受験機関はもちろん、マスコミや評論家の先生方までが一斉に捲し立てた。
 私の選択していた大学は、すべて文系であったから、これは重大問題であった。
 一ヶ月ほど、友達やら先生やらと相談した。その結果、私は、文系をやめて理系へと志望校を変更したのである。
 決してからはずみな選択だとは思わなかったが、やはり選択肢から「書道」が消えてしまったのは私としても引っかかるものがあった。
 私は、この選択のことを父に話している。
 父は、私が予想したとおり、
「それでいい。今の時代を考えればそれが当然だ。しっかり勉強しろ。」
 と言うのである。
 私は、その言葉に何か物事に一区切りついたように、ホッとした記憶がある。
 私は、父の「自由」にどっぷりと浸かり、安心しきって毎日をいわゆる自由自在に過ごしていたのであり、父の自由教育については、父の芸術家としての精神からごく自然に私に与えられているもののようにも思えていたのである。
 しかし、それは私の一方的な父への評価であって、父がこの「自由」に対して、どんなに心を痛め、鬼にして、私への「自由教育」を貫き通していたのかを、その時はまったく理解してはいなかった。
大学を卒業し、就職の時になって始めて、私はそのことを知ることになる。そのことについては後に書くことにする。

 さて、受験であるが、理系へ変更後、それなりに勉強は頑張ったつもりだが、現役時代は全ての大学に失敗し、必然的に浪人生活となってしまった。
 浪人生としての予備校暮らしが始まった。私は、鞄より大きな座布団を抱え、毎日黙々と通ったのである。あの事務の綺麗なお姉さんもまだいてくれたが、もうとっくに私のことなど忘れてしまったようで、目が合って私がニヤッと笑っても、まるで事務的に「いらっしゃいませ。」というような表情で出迎えてくれたに過ぎなかった。
 予備校は、早稲田大学の大熊講堂の隣にあった。当然毎日、早稲田大学の学生の顔を拝むことになる。そんな時は誰だって「来年は俺も・・・」などという気分にもなるではないか。
 しかし、私はそんな顔を拝んでもなーんにもそんなことは感じなかった。そいつらは自分とは関係なしに勝手に受かったのであって、相手にする対象にはどうしてもならなかったのである。

 それより私は、妙なものに関心を持ってしまった。そして私は、その妙なもののために勉強なるものを頑張ってみようかなどと思うに至るのである。
 早稲田大学の校門を出て左に行くと、古本屋や、麻雀屋や、古びた下宿や、定食屋などが並ぶ学生街がつづく。私は、そんな学生街の中に、早稲田大学御用達とでもいう様な看板を掲げた古びた店を見つけた。
どんな店だろうと、それとなく中を覘いてみた。その時、私の目に思いもかけぬ物が飛び込んできたのである。それは、私を釘付けにした。そして私を意気揚々とさせる素晴らしい風情を漂わせていた。
 「角帽」である。
 角帽は、上部が角形に尖がっていて、その風情はまさしく大学生といわれる者に最も相応しいもののように思えた。特に早稲田大学の角帽だからというわけではないのだが、教科書や文学書を抱えた大学生が角帽を冠って闊歩する姿は、私に狂おしいほどの感動を与えたのだ。
とはいえ、その当時、角帽冠って教科書抱えて歩く学生などまるでいなかった。しかし、私は、かつて写真や、映画で見たことのあるそんな姿に無意識にあこがれていたのであろう。角帽に直接出会った時、そんな潜在意識が一気に湧き出てきたのは確かである。

家に帰り、そのことを母に話した。
「まあ、なにわともあれ、勉強をやる気になったっていうことは良いことよね。まあ、頑張んなさい。あッ、その帽子かぶって予備校通うのだけは止めてね。みっともないから。」
 話す相手を間違えたようである。
 その夜、帰ってきた父を捉まえて、同じことを話した。
「そうか、それは良いものを見つけた。学生というものは、学生らしいところが良い。角帽はまさにそれだ。角帽かぶって、文学書片手に、小川にかかる橋に腰掛けて読書するなんぞ、最高だな。」
 と言った。
 予想通りの回答、ドンピシャだった。

 というわけで、私はあの角帽にあこがれ、来年は必ず角帽を買って、母には内緒で、荒川の土手で(ヘドロでちょっと臭いが)、文学書を読むんだ。と、意気込んだのである。
 予備校の帰りがけ、何度もあの古びた店を覗き込んでは、あの角帽を眺めたものだった。三千八百円であったことも忘れていない。

 一年はあっという間に過ぎていった。
 当時はセンター試験などというものはなく、私立が二月上旬から中旬にかけて、国立が三月の上旬に試験があった。
 私は、受験校を二つ選んだ。さあ、決戦である。

 で、結果であるが、驚くことに、私は初めに受けた私立に見事に、落第。つづいて受けた国立に、これも見事に、落第。という惨めな結果と相成った。
 私立をもう二三校受けておけばよかったと思ったがもう遅い。
 しかし、もう予備校生活はこりごりだった。で、受験雑誌をあさって、「これから受けられる大学」というやつを必死に探した。
 四方八方手をつくしという言葉はこんなときにも使えるのかなあ、などとくだらないことを考えながら、四方八方探しまくったのである。
 ようやく見つけたその大学は、二次募集というのをやっていた。おそらく私のような全部落第組みを、その弱みに付け込んで、さあ受けてみろというでかい面をしながら試験を行っているのであろう。
 そんな理由はともかくとして、これは助かったとばかり、早速願書を出して、あわただしく試験場へ向かったのである。

早咲きの桜が咲きだした頃だった。試験から一週間後、その学校から試験結果を知らせる電報が届いた。通常試験の発表は掲示板で行われるのだが、二次募集という落ちこぼれ専用の試験のせいなのだろうか、電報だけの発表であった。
 電報というものは、全部カタカナであって、まず住所が長々と続く、その次に、どこで住所と区切れるのか分からないほどに紛らわしく、受信者の名前が続く、やっとの思いでそれらを全部読んでしまったあと、本文が来た。
 さあここからが発表だと、心振るわせる暇もなく、そしてこれも紛らわしく、「パス」と二文字だけ書かれていた。

 私は初め、その意味が分からなかった。パスとは、試験にパスするという意味で合格を表すんだろうとは思えたのだが、緊張のせいか、はたまた、合格という言葉を数年ぶりに聞くせいなのか、なぜかぬくぬくと懐疑心が湧いてきてしまったのである。「パス」、それは、トランプなどで自分を飛ばすときに使う言葉でもあるではないか。つまり、試験で私は飛ばされてしまったのかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられない。
しかし、その大学では受験結果は電話で対応しないという。
わたしは、それから不安のどん底に二時間ほどいたと思う。不安は極致に達しかけていた。

しかし、その時ふとあることを思い出した。それは、試験の最後に聞いた試験官の説明であった。確か、「合格者には通知します。」・・・・・
ヤッター!、と初めて喜んだ時は、もう夜の帳がうっすらと私の体を包む頃になっていた。

私は、父と母、それから祖母に、そしてその時にはもう亡くなっていた祖父に、合格の報告をした。
みんな喜んでくれた。その日の食卓は、非常に盛り上がり会話も弾んだ。父は、満面の笑みを浮かべ、私の合格を称えてくれた。「理系への方向転換はおまえにとっても厳しいものがあったろうが、本当によく頑張った。」と父はしみじみ言ったのだった。私は、感激に胸が震えた。
しかし・・・・・そんな食卓の会話が一時間ぐらい続いた頃だろうか、父は、突然私を指差し、思いもかけない一言を発したのである。

「それでおまえ、どこの大学に受かったんだ。」

 父に受験する大学を言い忘れた私が悪いのであるが、どこに受かったのかも知らないまま一頻り私の合格を喜んでいた父はいったい何者であろうか。
しばらく考え込んだ後、私は一つの結論に達した。
そうだ、これは父を貶すようなことではない。これは、父のユニークな一面なのだ。ユニークというのは、他に類のないとか、独特のいう意味であるから、これは父に対する私の心を込めた褒め言葉になる、そう思った。
そう思っていると今度は、私の子供の頃に父や母が言ったあの言葉が甦ってきた。
「一生懸命やることが大事なのであって、結果はどうでもいい。」である。
なぜこの言葉かというと、父はあの食卓で先ず私の受験勉強の「過程」を褒めていたのであって、その結果受かった大学の名前は二の次だった。と考えるのは飛躍しすぎだろうか。
この頃の私には、父の中のさまざまな気持ちの流れ、動き、言葉、行動、そんなもの全てを裏付けるものが何であるかを指し測るだけの知識や知恵など持ち合せているわけはなく、結局父のユニークさを何をもって具現化させたらよいのか全く分からなかった。
ただ父は間違えなく私の合格を喜んでいてくれる、という事実だけは私にも明確に理解できるのであり、これだけを考えることにして、楽しくも複雑な思いをした我が家の合格祝賀会は終わったのであった。

 ともあれ私は、西に丹沢連峰を望む広大な草原にぽつんと建つ、小さな大学に合格したのでありました。
by corobo | 2005-04-29 00:22 | Written Explanation

第八章 高校生

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 高校というのは人生でどのような位置づけになるのだろうか。大学の付属に入ったような場合であれば、「のんびり学園生活を満喫できた。」などと言えることもあるのだろうが、私の場合は、いわゆる上のない、通常の高校であったから、入学当初から先生達からは、「受験」という言葉を聞かされてきた。
 反発はあるものの、私も進学希望であったから、一応そんな先生の受験対策のお言葉に耳を傾けざるを得なかった。
 高校受験の勢いを買って大学受験に向けて頑張れるような奴はいいのだが、私の場合は、例のごとくだらだらと勉強してきて、最後の二ヶ月程度受験勉強らしきものをしただけであったから、そんな「勢いを買う」などと言えるほど、もともと勢いはなかったのである。
 というわけで、高校時代も、だらだら、ふらふらといった感じの学校生活をすごすことになった。

 しかし、私はこの頃から読書というものをするようになる。そのきっかけとなる大事件が起こった。
 国語の授業の時のことである。先生が、「皆、今までに読んだ本のうち一番、気に入ったもの、好きだったもの、を言ってみろ。」と、私たち生徒に尋ねた。
 芥川龍之介の羅生門だの、高村光太郎の知恵子抄だの文学作品もあったが、北山修の戦争を知らない子供たちのようなその頃の話題作も出た。
 私は、「ほうほう、みんなたいそう読どるのう。」などと他人事のように聞いているうちに私の番になった。
私は胸を張って答えた。
「フランダースの犬です。」
 そのとき、私を取り巻く雰囲気が少し変わるのを感じた。それを感じるのと同時に、なにやら、得体の知れない音声のようなものが聞こえてきた。
 おかしいと思い、顔を上げると、私の周りのあらゆる頭が小刻みにコクコク動いていたのである。まだ私にはこの意味がわからない。私はそのまま席に着いた。
 先生は一応教育者の建前からなのか平静を装い「そうか、あれはいい話だったな。」とだけ言った。
 その後、これがクラスメートの嘲笑であると分かるのだが、なぜ嘲笑されるのか、私には納得がいかないことだった。
 私は、小中学校時代、あまり本を読まない子供であった。その当時に読んだ記憶がある本は、このフランダースの犬と、ゼロ戦撃墜王坂井三郎だけだった。それで、今回の先生の質問に対しては、国語の授業であるのだから前者の方が相応しいのではないかとそのとき思ったのであり、だいいち選択肢は二つしかないのであるから、人に嘲笑されるか否かなど考えて選択する余地はなかったのだ。
 しかし、先生は、「今までに読んだ本のうち・・・」と言ったのだから、私に何の落ち度もないことも確かなはずである。
 嘲笑される筋合いではないと、怒りに満ちた私であった。
しかし、どうも場の雰囲気は、私に不利を悟らせる。で、仕方なく机の上に人差し指を置き、それで何回も円を描きながら、グチグチとふてくされていたのだった。
結局私は、読書の嫌いな、お勉強もあまりしない、幼稚で、それでいていっぱしにでかい面をしていて、背だけが高い、危険な存在に思われてしまったのだった。

 だからといって、そのように思われたことが悔しかったから読書を始めたなど、そんな高級な競争心を反映するような心など私は持ち合わせていなかった。しかし一方で、この事件後、「僕、なんか良くない子?」とでもいうような疎外感を持ったのは確かであって、何か本でも読んで見ようではないかと思ったのも確かであった。
これが、私の読書のきっかけとなった。

 初め三冊ほど買ってきた。面白そうな表題を選んで買った。内容も面白かった。それで、面白かったから、次も面白いだろうと思い、また三冊買ってきた。これも面白かった。以後買ってくる本の全てが面白かった訳ではないが、私は本というものに「面白い」という意味で非常に満足感を味わうことになる。
 映画や、テレビでも面白いものは沢山ある。しかし、書店に並べられている本の数に比べたらその比ではない。つまり、面白い思いがしたければ、書店へ行くことで無限にその面白い対象が目の前に転がっているのである。
 近所の小さな書店でこれであるから、八重洲ブックセンターや三省堂書店などの大きな書店は、まるで天文学的に私に「面白いもの」を提供してくれたのである。

 私の読書好きは、このように、「面白いもの」に出会いたいということだけである。正当に正しく読書をしてれば、後にお勉強の為にもなり、更には教養も付いてくるなどということになるのであろう。しかし、私の場合は、「面白いもの」に出会いたいことだけが読書の理由であったから、このような読書の正当な結果論とはまるでかけ離れた結果論を生むことになってしまうのである。

 私の通っていた高校は、県下で特に優秀といわれる程の高校ではなかったが、それでも生徒の大部分が進学を希望する高校であった。その程度の高校だから特にそうなのかもしれないが、先生たちは受験、受験とうるさく私たち生徒に付きまとった。公立高校なのだから、ここまで必要に受験にこだわることもないであろうと生徒たちは陰口をたたいていた。
ある日私は興味本位にこの受験、受験とうるさく言うのはなぜかと、先生に聞いてみたことがある。先生は簡潔にこういった。
「お前たちみたいな程度の学力の奴らほど、何も言わないとよく遊ぶようになる。遊ぶようになると、受験も失敗する。だから、そうならないように言ってあげているのであって、むしろありがたく思わなければいかん。」
 というものだった。
しかし、これに私は納得してしまうのである。なぜかといえば、私自身の過去を振り返ればそのとおりなのであって、ちょっとでも時間があれば、遊びの計画を見事に作り上げ、寸暇を惜しんで勉強することなどまったくなかったからである。
 しかし、納得したといっても、その内容を理解したというだけであって、先生の言うとおりに勉強しようなどとはゆめゆめ思わなかった。そこへもってきて、私の読書好きが加わるとどういうことになるかというと、つまり、読書をしている間は単に勉強しないという結果だけが残り、試験期間中なども次に読みたい本のことや、今読んでいる本のことが気になって気になって仕方ないという現象が起こる。その結果、私の試験の成績はどんどん下がることとなった。
なんでも度を越すとよくない結果をもたらすというが、私の場合の読書はまさにその典型例となったのである。
 母は、そんな私を捉まえて、
「あんた、ここんとこいっぱい本抱えて、狂ったように読んでるけど、あんたのは読書好きとか愛読家とかそんなんじゃあなくて、ほら、放浪癖って言う言葉があるでしょ、その「へき」をあんたの読書に付けてね、読書癖っていうのがぴったりのように思えるんだけどね。」
 と言った。
 これは母も上手いことを言うと思ったが、ここでそんなことを言っては後が長くなると思って止めにし、「うん、うん。」とだけ答えておいた。

 当時、学生運動も終焉の頃、大学生の親戚のお兄さんに教わった、「黒田寛一・社会学の探求」などを読み、分かったような気になって、「現社会の不合理を徹底低に解明し、現政権の崩壊を希望する。」などということをまともな顔をして、友人に語ったこともあった。
 また、それほどお堅くはないが、「北山修・戦争を知らない子供たち」を読んで、平和を守るということは、学生運動でも、革命でもなく、単に人間同士の頑なな優しさを貫くことが大切なんだ、などと思ったものである。フォークソングにもあこがれた。
 恋愛小説は、ほとんど読んでいない。何故かというと、どの恋愛小説も、当時の私にはエロ小説にしか映らなかったからだ。恋愛小説といわれるジャンルに入る小説が、いわゆるエロ小説といわれるジャンルには含めれないことは十分わかってはいたが、恋愛小説の中に必ずといっていいほど登場する男女の絡みは、当時の私にはエロとしか映らなかったのだ。これは、当時の私が純情であったからではない。いわゆるエロ物は、他にもたくさんあったし、私はそれらも親の目を盗んでしっかり見ていた。
 感覚の違いだったんだろうと思う。今、恋愛小説を読めば、いわゆる「それ分かる」と思えるような場面が、当時の私の感覚では到達できなかったのだろう。
 翻訳物もあまり読まなかった。文化の違いからなのだろうか、どうもピントが狂うのである。ストーリーの流れに感動して読み進んでも、ラストの場面で、そのストーリーの結末に納得がいかないものがいくつかあって、こんなことなら読むんじゃなかったと思ったのだ。
 近代純文学なるものもあまり読まなかった。これもピントが狂うのだ。言葉遣いが今と違って読みづらかったし、当時の私の知識、経験などからは捉えきれないところがあったのかもしれない。それでも、読みやすそうなものはいくつか読んだ。山本有三・路傍の石や下村湖人・次郎物語は読んでそれなりの感動は受けた。しかし、一番記憶に残っているのは、谷崎潤一郎・細雪で、歯の治療でばい菌が入って死んでしまう板倉さんが可哀そうで可哀そうで仕方がなかったことかもしれない。
 現代ものの小説はよく読んだが、何故か暗い憂鬱な主人公が登場するものが多かった。
 ふらふら、だらだらの極楽トンボであった私に、暗く憂鬱な主人公はまったく似つかわしくないのであるが、日常の体たらくからの反射的傾向なのだろうか、そんなものを多く読んだ。

 当時大人のやることなすことを見ていると、いわゆる(本当に正しいこと)との間につじつまが合わない点があることに気付いていた。私が好んで読んだ本は、このような矛盾を問題視しているものが多かった。しかし、大人にそのような矛盾を問い質しても「おまえはまだ何も分かっていないんだ。」などと一蹴りされるのがおちだった。しかし、経験のない先の事を言われて、無知をごまかしながらそれに反論することこそ愚かしいと思った私は、もうそれ以上は深入りはしなかった。
 しかし、大人というものは本当に正しいことのいくつかを切り捨てて生きてるんだなあと思ったものである。

 当時子供にとって、ものの善悪などの社会性は、子供と取り巻く環境が自然に教えてくれたように思う。親はいなくても子は育つなどといわれていたのも、このような社会環境があったからだろう。親が、あえて教えなくても、社会、友達、学校などその子供を取り巻く、環境がすべてその子供に社会教育をしていてくれたのである。
 学校の先生は、「正しい」ことだけ言う特別な人だと信じていたし、友達もどこで聞いてくるのか、何か行動を起こすときにその善悪を諭す奴が一人ぐらいは必ずいた。テレビも、正義の味方を真正面から描くものが多かったし、いわゆる青春物といわれるドラマでは、まっしぐらに「正義」と説く先生が出てきた。
 当時はそんな環境の中で、子供たちは、その正義に対して「現実」を照らし合わせ、その矛盾に「なぜ?」という疑問を投げかける。親の行動と「正義」の間のギャップに怒り、親に反発するのである。
 私も、そんな反発の年頃をむかえていた。しかし、私の場合、親にこのような意味で反発した記憶がない。というよりも、反発する対象が何かいつも忙しそうであったし、高校生くらいになると親との接触も減ってきて、好むと好まざるとに関わらず、反発する時というか、チャンスがなかったというのが正確なところである。通常、親との会話の少なさ、接触の少なさなどは、反発を誘引する最たる要因にもなり得る様であるが、私の場合は、逆であって、対象がなければ反発も出来ないではないかとばかり、反発をしなかったようにも思える。しかし、その辺のところはよく分からない。
 私の親は、子供に対していわゆる放任主義であって、私のすることを指揮するというようなことは、特に高校生になってからはまるでなくなった。
 私の親の放任主義は、他と一線を画するほど徹底しているものであり、自立心を養うという意味では素晴らしと思う。
しかし、私の体たらくはそれをいいことに、好き勝手を決め付けていたのである。友達は、そんな私を捉まえて、
「過保護も良くないけど。放任しすぎも良くないんだなー。」
 と、私にしみじみ言ったものである。
 しかし、我が家の放任主義、何をするにも、何が良いか悪いかを決めるのも、すべて子供である私自身が決めなければならない点が特徴であって、裏を返せば、獲得した「自由」は、その自由を得た私自身が全て責任を持つのだ。
 だから、私の体たらくが原因で、友達にあんなことを言われるのは、私自身が悪いのであって、親に悪いことしてるなーとは思ったものである。
しかし、私は、この得られた自由の中に、決して含めてはいけないものを感じとっていたことも確かだった。責任が自分自身にあるとなると、自然に「やってはいけないこと」つまり「悪」というものが反射的に見えてくる。
 不思議なことだが、幸福な家庭に育った子供の多くは、少々の悪さをしても決してある一線を超えることはない。 
 幸福な子供は、その幸福の中で「安堵」の感情を味わっている。そして、その「安堵」の気持ちが大きくなればなるほど「悪」というものへの「恐怖心」が湧いてくる。一線を越えた「悪」が、自分の周りの幸福を全て破壊してしまうことを恐れるからだ。
逆に、幸福のない家庭で育った子供は、その不幸からの逃避に「悪」という存在を「安堵」であるかのように錯覚してしまうように思える。
 我が家の放任主義と幸福は、私がこの「悪」に対して頑なな拒否反応を示すのに大きく貢献したのである。
 というようなことを、私はかなり真剣に考えた記憶がある。夏休みの宿題の作文で、こんなことを書いて先生に珍しく褒められたのを憶えている。

 しかし、悪に手を染めないからといって、やはり私の生活は、ふらふら、だらだらの体たらく状態で、それでも平気な顔をしてあの読書癖に没頭する毎日が続くのであった。 
ある日、父がこんな話をしてくれたことがある。
「おまえ、「次郎物語」読んだみたいだな。こないだおまえの書棚で見つけた。俺も読んだことがあってな、その中で特に素晴らしいと思えるところがあったんだが、果たしておまえはどう思うか聞きたいと思ってな。」
 と言うと、書棚の次郎物語の本を取り出してきて話を続けた。
「それはな、たくさんの幸せの中でたった一つ出くわした不幸に立ち直れないほどの苦痛を感じる者がいる一方で、数え切れないほどの不幸の中でたった一つの幸福に生きがいを感じて力強く生きる者もいる。おまえこれどう思った。」
 と問いかけた。
 次郎物語は、次郎の少年期の頃の内容しか私は面白いとは感じていなかった。それ以降の内容は、人生訓といおうか、人間としてのあり方というようなものを、とくとくと説く内容で、当時の私としては、理解も興味もほとんどわかなかったのである。
 ただ、父の言った内容は、はっきり記憶に残っていた。
 当時、幸福の真っ只中で、怖いものも知らず、何も困るものがない中で生活してきた極楽トンボにも、それを自分に当てはめた場合に、たった一つの不幸に自分がどのような反応を示すのかということを考えさせられたからである。
 幸福の中にいて、その幸福が大きければ大きいほど「不幸」というものにたいして非常な不安を抱くのである。
 私はといえば、この大きければ大きいほどの部類に入ると思われ、それだからこそ、ずしっと重く圧し掛かる内容であった。
 幸福であるからこそ、極楽トンボにもなれる。しかし、逆に不幸の中で極楽トンボになるにはある意味相当の根性と気構えがなければ到達できないとも思えたのだった。

 私にとっての読書、ほんの僅かばかりではあるが、ものを「考える」という作業をさせてくれて、更に父の問いかけは、私に理性のようなものを植えつけてくたように思える。

 ところで、父の問いかけであるが、他にもあった。
 小学校五年生頃のことである。
 家の玄関を出て直ぐの所に、バキュームカーが来ていた。私は大声で、
「便所屋がいるから、この道は臭くて通れないよ。」
 と、後から歩いてくる父に言った。
 そして私は顔を前に向き直し歩き出した。と、偶然にそのバキュームカーのおじさんと目を合わせることとなった。その時のおじさんの顔は、唇に少し笑みを浮かべ、私を哀れむような目をしていたのを記憶している。
 その夜、父は、「便所屋」と叫んだ私に、
「いいか、この世界のどんな職業も、人が必要としているから存在するんだ。もし、あのおじさんが各家の汚物を持って行ってくれなかったらどうなる。困るだろう。おまえはそんな大切な仕事をしている人に向かって「便所屋」と言った。この言葉は、軽蔑を表す、非常にその人に失礼な言葉だ。いいな、おまえは間違ったことを言った。二度と言ってはいかん。」
 と、強く叱られたことがあった。

 父と私の会話は、小さい頃から多いほうではない。というより、少ないほうだったと思う。忙しかった父とは、一緒に外出することも他の一般的な家族よりもかなり少なかったように思う。しかし、少ないからであろうか、それだけに、私には、あの白木屋の豆自動車のこととか、錦糸町の江東デパートのこととか、習字コンクールのこととかが鮮明に記憶に残っていたし、何より、私は我が家の存在自体に幸福感を感じていたのだから、親との会話や外出が少ないということが、私の性格形成に何ら悪影響はしていないことは確かなのだ。

しかし、父は晩年、そういった外出や会話の少なかったことを、「すまない事をした。」と、私に何度も話すのである。
「違う違う、そんなことはない。」と、私は何度も父に言い返すのだが、ついに父は首を縦に振ることはなかった。
 しかし、これは父の思い過ごしである。
父のあの「問いかけ」は、決して私にあのバキュームカーのおじさんの顔を忘れさせることはなかった。会話や外出の多い少ないではなく、父は父親として「十分」に私に接していた。そして私は、人一倍の幸福を感じていたのである。
だから、絶対に父の思い過ごしなのである。
by corobo | 2005-03-06 00:56 | Written Explanation

第七章 受験

 
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 中学三年生になった。
 受験という壁が、私の前に立ちはだかる。私はその壁を乗り越えようと、毎日懸命な勉強を続けた。毎日十時間、私は必ず机に向かい、来るべき試験に備えた。父も母も、そんな私の姿に将来を重ねあわせ、期待と、喜びを感じたという。充実した日々であった。

 というのは嘘である。
 そもそも勉強などというものは、それまで中間試験だの、期末試験などで、短期間ちょこっと勉強したことはあったが、一年後にあるという入学試験のためにどのように計画して勉強したらいいのかも分からなかったし、そもそも、一年などという期間を考えること自体嫌気がさしていたのだ。
 学校では、一学期の終わりごろに行われる公開模試の成績で、志望校を選択することになっている。受験生は担任と相談し、選択した学校目指して、その後一途に頑張るという構図になっているのだが、私はちっともその実感が湧かなかった。
 一学期の終わりごろ、私の成績はそれほど悪くなく、志望校も私の希望していた高校を選ぶことが出来た。しかし、その間私は特に入試のための勉強として頑張っていたわけではなく、二年生の時よりは少しましかな、という程度の勉強しかしていなかった。それでも、結果は望みどおりだったのだから、私は、喜んだというよりも、しめしめといった感じで、以後もそこそこ勉強していれば志望校には合格するものと決め付けていた。
 八月は受験ためのもっとも大切な時である。それでも私は、緊迫感などまったくなく、夏休の半分くらいはぷらぷらと遊んでいた。
 公開模試はといえば、八月、九月、十月とほぼ同じ程度の成績だったので、担任も「これなら大丈夫だ。」などと私に言っていた。
 ところが、十一月でわずかに点数が下がった。そして十二月、私の成績はなんと学校の難易度を二つ下げた位の順位になってしまった。
驚いたのは、私より、担任だった。突然私を呼び出し、
「どうした、体でも悪いのか。この成績では志望の学校にはまったく受からないぞ。」
と血相変えて捲し立てた。
「よく分かんないんですけど、勉強は今までと同じなんですけど、体も快調なんですが、というわけで、よく分からないです。」
と答えた。実際、私にもよく分からなかった。のんべんだらりとした勉強ではあったが、とにかく今までは志望校に合格できるだけの成績は取っていたのである。
しかし、このとき担任は、私の成績が落ちた理由を明確に把握したようだ。
「よく聞け。受験ていうのは、競争だ。だから自分がいくら一生懸命勉強していると思っていても、他の生徒がお前よりもっと勉強すれば、お前は負ける。お前より成績の悪い奴が、今のお前より倍の勉強をしたとする。直ぐに結果が出るわけではないが、いずれお前は負ける。一生懸命勉強したそいつがおまえの席に座り、おまえはそいつの席に代わって座る、ということだ。」
 それから、担任は事細かに私の毎日の勉強の仕方を尋ねてきた。私は、例の、のほほん、だらだらな毎日の勉強をそのまま担任に話した。
 担任は、少しうつむき、直ぐに私を睨み、
「もうやるしかない。2ランク下がったお前の成績が、正直元へ戻るのかどうか先生にもよく分からない。しかし、やってみろ。一月の公開模試で、もし元へ戻らないようなら、受験校を変更する。いいな。」
 そう言うと、私の親の都合がつく日は何時だと尋ね、わからないという私を下から眺めるように見定め、「よし、じゃあ、先生がお前の家に電話して確かめておく。」と言い、「もういいぞ帰れ。」と言うので、私は一目散に学校を逃げ出した。

 先生の言うことを推測すると、今後確実に親子面談がある。この親子面談、大抵何か悪さでも為出かしたか、成績が下がったときに行われるのだ。

 面談の日は、あくる日の金曜日と決まった。母には勤めがあるはずだが、どうも休むようである。面談の日があくる日と慌ただしく決まったことや、母が勤めを休んでまで、直ちに面談の日程に同意したことを考えれば、これはもしかしてただならない事態だとは思えたが、その時はまだ私に緊迫感などというものは芽生えていなかった。
 面談は、もっぱら先生と母とで進められ、私は蚊帳の外に置かれていた。私は、初めのうちこそその会話を聞いていたが、途中から眠くなってしまい、眠気を我慢しながらほとんど下を向いて他の事を考えていた。
 面談が終わりかけたとき、先生は私の方に向きを変え、「これから二ヶ月が勝負だ。」と強い調子で言った。
私は、軽い気持ちで顔を上げた。すると、その時その場の雰囲気が異様であることに気付く。怖いと言うか、張り詰めたと言うか、胃袋に何かが重く圧し掛かるような感触を受けた。私は、ただならぬことが起こっていることを、ここで始めて知る。理屈では、どうしても分からなかった緊迫感であるが、一度に押し寄せて来たという感じである。
 自分の置かれている状態に対して緊迫感を実感してしまうと、私でも反省心が僅かばかりではあるが出てきて、「頑張らないと、いけないんだなー。」とは思った。
 ここに来てもだらだらしたような決心なのだが、そう容易く私のだらだらは、きりっとした言葉では反映できなかったのだ。
 しかし、言葉はどうであれ、頑張ろうと思ったことは確かだった。
 帰り道、面談の結果について母がなんと言うか興味があった。興味があると言うより、何か安心できる言葉を母に期待したという方が適切かもしれない。
「やっぱり、やらないとだめね。あんた、よく遊んでたからね。受からないかもしれないけど、やってごらん。とにかくあと二ヶ月は一生懸命にね。」
 母は、それだけ言った。
 当時、明確にその言葉を分析できたわけではない。しかし私は、小さいときから父にも母にも「一生懸命やることが大事なんだよ。結果はどうでもいいから。」というようなことを何度も聞かされてきた。何度もこんなことを言う親を少しうるさく思ったこともあったのだが、今回母が言った言葉の中にこの「一生懸命」と言う言葉が含まれていたということで、私には自然に「結果はどうでもいいんだから」という言葉が連なって出て来たのだった。
 学校からの帰り道、さっき感じた緊迫感は恐怖心へと変化しかけていた。しかし、「結果はどうでもいい」ということになれば、こんな恐怖心も必要ないではないか。ということで、この生じかけた恐怖心もたちどころに消えうせてくれたのだった。なんかちょっと勝手で、調子がいいし、良いところだけ汲み取って納得してるなー、とも思ったが、その時はそれ以上考えなかった。
 この面談のことについては、その後母も父も触れることはなかった。というわけで、勝手に吹き飛ばした恐怖心と、若干残った緊迫感の中、以後二ヶ月間は、私としてもよく勉強したと思う。

 私は、理科が嫌いであった。全部が嫌いであったわけではないのだが、特に「実験」の内容を書かせる問題が嫌いだった。覚えられないのだ。大体、実験の内容なんて教科書見りゃ分かるじゃないかとばかりその問題をけなし飛ばしていたのだった。その考えが正しいのか否かは今でも分からないのだが、とにかく覚えられなかった。
 社会が嫌いであった。歴史は好きだが地理は嫌い。この傾向は一般的に市民権を得ていたのだが、それでも他の受験生は嫌な地理もやりだしていた。
 私は、数学が得意でなかった。点数はそんなに悪くなかったし、頭が痛くなるほどでもなかったのだが、なぜかクラスで数学が出来る奴は耳がとんがってるような奴が多かったので、得意になる気にはなれなかった。
 英語と国語は、面白い科目だった。英語は、中学一年の時に英語塾などというところに友達に誘われるまま行ったおかげで、最初の頃の授業の取っ掛かりが良かったのだろう、よく理解できたし、点数が取れると「面白い」などという気分になれていた。
 国語は、英語よりも好きな科目だった。特に読解は好きだった。
この読解が好きになるには理由があった。ある小説家の作品が入学試験で使われた。問題は、「趣旨を述べよ。」である。その小説家は、問題の解答について、こんなことを言ったのである。
 
「この答えは、私の考えていた趣旨と違う。」
 
これは痛烈に私を刺激した。非常に愉快であった。それまで、どんな教科でも答えは決まっていたし、答えは一つしかなかった。それが、答えが二つある。そう思っただけで、愉快で愉快でたまらなくなった。
 問題の文章を読むと、必ずそのことが思い浮かぶ。これを書いた人と、先生は果たして同じ答えをするのだろうか、といつも思いながら問題を解くのが楽しかったのだ。もっとも、その当時の私の文章の解釈力はたかが知れたものだったし、それを書いた作者本人の考えを聞く機会などないのだから、大抵というより、すべて、答案が返却される時の先生の説明で、その趣旨なるものを納得してしまったのである。というわけで、疑問は残るものの、「愉快」という感覚が私の体にこびり付いてしまい、その後国語は楽しく勉強したのだった。

 年が明けて一月、最後の公開模試が迫っていた。残り二週間。他の科目は、何とか大丈夫だと思えた。嫌いな地理も必死に覚えた。
 しかし、理科である。化学反応や計算問題は何とかしたが、まだあの実験についての問題には手を付けていなかった。私は、ビーカーから上る湯気を教科書に見つけるだけで訳もなく腹立たしくなった。しかし、必ず出る問題である。本番でも毎年出題されることは過去の問題を調べれば直ぐに分かった。それに、常に大問で二問出る。全体で五六問程度の出題数であったから、絶対見逃せないのだ。
 仕方なく、参考書に目をやる。しぶしぶ暗記に精を出そうとした。
 そんな時、突然父が、理科の参考書を抱えて私の部屋にやってきた。そして、唐突にこう言うのだ。
「おまえ、ここと、ここと、ここと、あと紙を挟んだところを覚えろ。いいな。」
 そう言っただけで、父は直ぐに部屋を出て行った。
 その紙を挟んだ頁は、全て実験の項目を載せていた。おおよそ十項目、二十頁程度であったように思う。実験の項目としてはそれで全てではない。この三倍程度はあったのだが、父はその一部を指定した。
 父は、理科が出来るのか? これは疑問であった。書家と理科というのをどう結び付ければよいのだろう。
父が選んだのは全体の一部である十項目だった。これは明らかに、「ヤマ」である。ヤマを張るには根拠がいる。特に重要な項目であったり、過去に何度か出題されていたりという具合である。であるから、父はその根拠に基づいてヤマを張ってくれたのだと考えると、父のヤマにも説得力を感じてきた。
父が、ここまで理科が出来たとは思わなかった。そしてこの、ヤマ、最後の公開模試で一問、本番でなんと二問出題され私の志望校合格に最も貢献してくれたのだ。さすがに、理科の出来るわが父を、誇りに思ったものである。
 小学校の頃、祖母が、
「お前のお父さんは、ノートにこんなに細かく、綺麗に書いていたんだよ、お前も、こんなふうに勉強するんだよ。」
 と言って、父の師範時代の算術のノートを見せてくれたことがある。確かに、それは緻密に書かれていた。頁の左五分の一程に縦に線を引き、そこを境に左に図形、右に解答、という具合に書かれていた。祖母は、私の、ミミズが這ったような字や、台形のような正方形や、最後のところが一致せず一箇所開いた丸などを見て、心配に思って見せたのだろうと思うが、実際、父のノートは秀才が書いたものであるように見えた。
 そんな記憶がよみがえり、算術が出来るなら理科もよく出来るのだろうと思ったのだ。

 しかし、その後、それがまったくの間違いであることが分かる。
 高校に入学して直ぐの頃、父は私の部屋に夜中こっそり入ってきた。
「あのな、おまえ、理科の問題だけど、よく出来てよかったな。それでな、俺があの時お前に渡した参考書の問題だがな、あれは当てずっぽうだったんだ。本当だ。ホントーに当たって良かったよ。」
 それだけ言うと、そそくさと部屋から消えていった。私は唖然とその後姿を見送った。
 冗談じゃあないよ。もしあの問題が出なかったら。
 それからしばらく、私は机に金縛りにあったように、動けなくなってしまっていた。

 あくる日、母が私の部屋へやってきた。
「昨日、お父さんここへ来なかった。」
「来たよ。」
 私が不機嫌に応えると、
「そう、やっぱり、それでなんて言ってたの。」
「あのさあ、当てずっぽうだったんだって、理科の問題選んだの。俺、どきどきしてきちゃってさあ、もし出なかったらって。」
 母は、そういう私から眼を離し、机の前の窓に向かって、こんなことを言い出した。
「あのね、あの問題のことね、あれ、お父さんがあんたの中学校の理科の先生に直接会いに行ったのよ。それで、重要な部分ってことで教えてもらったの。そこまでするのはおかしくないってわたし言ったんだけど、お父さん聞く耳持たずって感じで、結局会いに行っちゃたのよね。けど、別にそれを言えばいいじゃないのよねえ。なぜ言わないんだろうね。照れなのかな。」
 少し、考え込むと、
「まあ、いいわ、本当のところをあんたも知っていて欲しいから、教えておく。後のことはお母さん知らないから、適当にして。」
 (適当にして、)と言われても困った。
 しかし、そのとき私の気持ちの中に父の顔が浮かんだのは確かだった。照れなのだろうか。それにしてもあのような嘘を言うことの意味は何であったのだろうか。その時の私にはわからなかった。
しかし、一つだけ、決めたことがある。このまま、何も言わないでおこう。理由は分からないが、それが良いような気がした。
 男の照れと嘘、そしてその嘘があまりにも子供じみていて、しかしそんなものが混ざりあって、男の「味」というようなものを創ることがある。そんなことが理解できたのは、それから二十年も経ってからのことである。

 私の高校受験戦争は、大勝利に終わった。
 卒業式のあくる日、父は私を白木屋へ誘った。屋上には、もうあの豆自動車はなくなっていた。
「ベンチに座っていろ。」と言って、父は一人で消えていく。しばらくすると、閉店の音楽が聞こえてくる。次第に不安になる私の前に父が現れる。父は、大きな黒い学生鞄を私に突き出し。
「これ使って、勉強やれ。」
 と言った。
 帰りの都電の中、父は私の横で本も開かず、すやすや眠ってしまった。
by corobo | 2005-02-20 23:56 | Written Explanation

第六章 みち子先生

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 父が私に直接書道を教えるのは、小学校時代で終わる。
 父は、私が中学校に入学すると直ぐに、大田みち子という東京学芸大学の三年生で書道を専門にする女性に書の指導を依頼した。
 父が直接私を教えなくなった理由は今でもわからない。父は、私が六年生ごろになると、私に対する書の指導の意欲をなくしてしまったのかのように、書ついて語らなくなった。もちろん、父自身が書に対する情熱を欠いたことによるもので無いことは確かである。では何故、父は私に書を語らなくなったのだろうか。
 想像するに、父は私に書というものの将来の選択を私自身に委ねた、という答えが一番当てはまっているように思える。父は、当然には将来私が書への道へ進むことを望んでいたであろう。しかし、父には自分の息子の将来の職業選択に対して「自由」を与えることを信念としていたように思える。これは父との日々の生活の中に裏付けられる。
父の「自由」は、職業選択についてばかりではなかった。日々の生活の中での、世の中に対する私の疑問や、勉強についての疑問、クラブ活動の選択、遊び方に至るまで、私の思いは私自身の自由に任されていた。私の発言に反対の主張はすることはあったが、それはあくまで私の誤りを正すという意味の主張であって、それを父の持つ考え方へ向けさせようとするものではなかった。
 私は、そんな父の「自由」を以後満喫することになるのである。

 さて、大田みち子先生は、たまご形の顔のぽちゃっとした色白の女性であった。中学生の私には、このような女性の容姿は、その人の良し悪しを測る物差しにはなるはずもない。しかし、その顔立ちと比例するかのように優しく、物静かな人であるように思えた。私は、始めて彼女が家に来たとき、わずかばかりの会話でそう思ったのである。
 書の練習は週に一度土曜日の午後であった。
「ごめんね、遅くなっちゃった。さあ始めようね。」
実はこの先生、いつも遅刻する。なにが忙しいのか知らないが、息せき切っていつも我が家の玄関をくぐってくる。
 私はからかってやろうと思い、
「彼氏がいると大変だね。別れるのが辛いんでしょう。せっかくの土曜日なのにさあ。」
と言うと、少し顔を赤らめたかと思うと、直ぐに正気に戻り、私の頭にげんこつをゴッツンを食らわした。
 あれれ、この人優しく物静かなのでは? そんな疑問がわく。
 以後、書の練習で私がちょっといい加減に書いたりすると、ゴッツンとくる。
「こういうのってさ、今流行らないと思うんだよね。それに女のくせに、殴るってどうゆうこと。」と、小さな声で呟いたのが聞こえてしまって、またゴッツンときた。
 初印象が、如何に信じがたいものかを私は悟る。

 しかし、この先生、書に懸命に没頭しているということは直ぐにわかった。墨を磨るときには、何も語らない。一点を直視するかのように集中している。
 そんな先生が、日展に初めて入選したのは、私を教えるようになって丁度一年ほど経った頃である。父に満面の笑みを浮かべて喜びを表していた。私には、決してその入選を自慢したりせず、いつもどおりに書を教えてくれた。ゴッツンをもう少しやめにして欲しいと、今なら言えるかとも思ったがやはり恐ろしくてやめにした。
 この先生、このゴッツンのほかにもう一つ困ったことがあった。それは、私と外を歩くとき、必ず私の手を引いて歩くのである。これは本当にやめて欲しかった。
 先生は、私をよく遊びにも連れ出した。遊園地も行ったし、映画なども私にはよく分からない題名の看板を指差しては、「これって感動するの。観よう。」といっては無理やり私を映画館へ連れ込む。その間中私は先生に手を握られているのである。
 友達に見られたときは悲劇だった。思春期をむかえた私には、これは非常に恥ずかしいのだ。
 私は、その旨をみち子先生に伝えた。しかし、先生は、「いいの。」とだけ言って取り合ってくれなかった。
 この先生には、中学の二年生が終わるまで書を教わることになるのだが、その間中、私は先生の手に引かれて歩かされることになるのである。
 私は母に、この手をつなぐ件について問い詰めたことがある。
 母は、首を少しかしげ、
「それね。きっと、彼女の家庭の環境に関係するのかもしれないわね。」
母は続ける。
「彼女のお父さんはね、商社に勤めてるの。それで、彼女にとても優しくしてくれるんだって。だから彼女はお父さんが大好きなのね。でも、お父さん商社マンでしょ。それで、僅かばかり日本に居るかを思うと、直ぐに外国へいてしまうんですって。高校生まではお父さんと一緒に外国で暮らしたんだけど、彼女が書道をやりたいということで、どうしても日本の大学へ行くことになってね、それで今はお母さんとお姉さんと三人で日本で暮らしてるんですって。」
母は少し考え込むと、
「そうね、そのお父さんの温もりっていうか、優しさっていうか、そんなものの感触をあなたと手をつなぐことで紛らしてるのかもね。きっと寂しいのよ。」
そう言うと、母は彼女の簡単な経歴を書いた便箋に見入っていた。
 私には訳がわからなかった。なぜお父さんの温もり、優しさが私と関係するのだろうか。その当時の私には疑問以外の何ものでもなかった。

 しかし、慣れというのは恐ろしいものである。私は次第に先生に手を繋がれることに苦痛を感じなくなっていった。
 手を繋がれることの感触は、姉に手を引かれることとも、大好きな従姉妹のお姉さんに手を繋がれることとも、母と手を繋ぐこととも違う感触であった。不思議な感触。意味のわからない感触に、それ以上深く考えることもせずに、私は先生と楽しい時を過ごすことになった。

 さて、書の話であるが、この先生、学芸大学で教わっている先生が父の師匠のの流れを継ぐ方だそうで、字が父と似ている。父と似ているということは、レベルの差こそあれ私の字とも似ている。ということもあってか、中学校の先生が私の字を批評するときのように私は不満を唱えることはなかった。実に、好い感じといおうか、良い流れといおうか、私には大変満足できるものだった。
 今でもはっきり憶えているのであるが、みち子先生は書を書く行為の合間に次のようなことを話してくれた。
「最初のうちは、勢いをつけて書くと字形が崩れるから、つい用心して雑巾を引っぱるみたいに書きがちなのね。でも字形は一応出来ても、筆が生きてないので線は死んでしまう。このことをなんというかっていうと、死筆というの。書っていうのは生き生きと書くことが一番大事だから、活筆じゃなければいけないのね。分かった、あんた。」
 (分かった、あんた。)にはびっくりしたが、彼女は平然と続ける。
「それでね。鋒先が開いたり閉じたり、突いたり捻じたり、上下に弾んで伸びたり縮んだり、いろいろに働いて生きた筆になるのね。練習を積んだ人の揮毫、(揮毫っていうのは筆を走らせて書くってことね、)を見ていると、運筆のリズミカルな微妙な変化にともなって筆の自由自在な動きとか、間の取り方、勘所をおさえた体や腕の全身的な動きなんかがね、筆と一つに解け合って流れ出てくるの。書っていうのはね、今言ったように用筆を主とした芸術なの。難しい?」
 私は、これが父に教わった、「線」の強さのことかな、と思った。あの書初めの時、私がその線のことに加えて、字形とバランスを考えなければいけないんだと理解した、あの頃を懐かしく思い出した。
父は、「線」の強さについて、小学校低学年でもわかるような簡単な言葉を使って私に教えていたので、今先生が話したような言葉で聞くと、一つ自分が進歩したようで新鮮に思えた。
 先生は続けた。
「『気韻生動』って言葉知ってる? あのね、東洋では「気」っていうのがすごく重視されたの。「気」っていうのはね、全ての生物の元となるものと思われるもの、体の根元となる活動力のことでね、息、呼吸、こころもち等のことなのね。一口で言えば生命そのものって感じかな。そうすると、気韻生動っていうのはね、生命のリズムが生き生きと躍動することってことなのね。躍動っていうのは、生き生きとして勢いがあることね。それで、生命って、みんなリズミカルでしょ。全て生き物ってリズミカルに動くでしょう。宇宙の生物だってリズミカルよきっと。それから、地球が太陽の周りを回るのも一定の周期ってものがあるからこれもリズミカルね。家の外を見てごらん。花だって、鳥だって、風だって、みんなリズミカルでしょ。書も同じなの。あなたという生命が広い宇宙のほんの一点で、でも見事にリズミカルに生きる。そのあなたが書く書はリズミカルであるべきなの。」
 そういうと彼女は、一つため息を突いて、私を柔らかな目をして見つめる。
「難しい? そうね、今のあなたには、よく分からないと思うわ。でもね、今言ったこと忘れないで、必ず何処かにしまって大事にしててね。いつかあなたはあなたの体で感じるときが必ず来るから。書をしていても感じない人もいるの。でも、あなたは必ず感じるわ。必ず。」
そうしみじみ言うと、彼女は黙って筆に手をやり、黙々と私の手本を書き始めた。
 なぜ、「必ず私には感じられるのか」、その時の私にはまったく理解することができなかった。

 すると突然、彼女はニヤッと私の顔を見た。もっと正確には、ニィーッといった感じ。
 変な人だなこの先生は。と思っていると、
「あのね。あのですね。本当のこと言ってあげようか。」
 私は、何が本当で、何が嘘なのか分からず、あっけに取られた顔をしていると、
「あのね。今私が言ったことね。本当はあなたのお父さんの受け売りなの。実は昨日あなたのお父さんと偶然に上野でお会いしたの。そしたら食事しましょって。それでその食事の間に、今のお話伺ったの。ごめんね。偉そうにしちゃってさ。」
 別に偉そうなんて思っていなかった。それより、こういう仕草というか、正直っていうか、あっけらかんとしたというか、そんなところ、このお姉さんいいななんて思った。
「あのね。でも、最後のところは、私の気持ちよ。あなたは必ず感じるわ。必ずよ。」
先生は最後にそう付け加えた。

 その後の先生は、ほとんど書の理論などというのは私に教えなかった。あの『気韻生動』の話も父の受け売りだと言うし、大体この先生、理論なんてものは性格的に向いてないじゃないかなどと想像し、何時しか勝手に決め付けていた。
 実際、先生のもくもくと書を書く姿は、理論家というより、実践家に映るのである。しかし、まあ、そんなことは私にはどうでもよいことだった。書を習うことは楽しかったし、手を引かれることも慣れてきたし、いろいろなところへ連れて行ってくれるし、私は先生と楽しい時をすごすことになった。
しかし、楽しい時というのはあっという間に過ぎていく。

中学二年生の終わり、桜の花がほんの少しだけ花開いた頃だった。先生とお別れのときが来た。
 先生は、大学を卒業した。教員への道も考えたが、やはり、大好きな父親の下で暮らしたいと思った。自分は、人並みに将来は結婚するだろう。だから今、就職を日本でしたら、二度と父親との生活は出来なくなるかもしれない。そう思ったのが理由だった。
 先生は一人で、父親の住む外国へ向かうことになった。

 先生は、私という人間をどの程度身近に感じていたんだろう。学校には仲の良い友達もいるだろうし、それに恋人だって。
 中学生の私は、その点を計る物差しはまったく持ち合わせていなかった。しかし、私自身は、先生のことを大好きになっていた。初めは、手を繋がれることが嫌でたまらなかった。しかし、時が流れ、ふと、先生の手に何か不思議な感覚を感じるようになった。ひょっとしたら、これが私の初恋だったのかもしれない。

無性に先生の見送りがしたくなった。でも、先生には見送る人は他にいるはず。そう思うと、私は、先生が最後に私の家に来て、父親の所に行くことを私たち家族に告げた時が最後なんだと言い聞かせた。
 しかし、先生は帰り際、私に小さなメモを渡した。そこには、出発便の番号と、出発の時間が書かれていた。それでも、見送る人は他にたくさんいるんだろうと思えたし、その時は見送りには行かないものと決めていた。

 数日が過ぎる。私の手にあの温もりがよみがえる。どうしようもない気持ち。
見送りの人がたくさんいたってかまわない。衝動的にそう思うと、私は一人、羽田空港ヘ向かっていた。
 出発ロビーに私はしばらく呆然と立っていた。ふと正気に戻り、あたりを見回す。
ほとんど同時だったろうか、二人は互いを見つけた。大きく手を振って近づいてくる先生に、私もなりふりかまわず応えた。
「来てくれたの。」
 先生は、息を切らしながら言った。
「来たよ。」
ボソッと言う私に、
「さよならだよ。何時帰ってくるかわかんないからね。あなたに会えてよかった。」
ふてくされた恰好をする私は、やはり中学生であった。小さな声で言った。
「帰ってきたら、電話してよ。」
「うん、必ずする。」
 先生はいつものように私の手を引いて、飛行機の通路へ向かうエレベーターのほうへ歩き出した。
「手紙ださないからさ。」
 先生は、突然そんなことを言う。
「別にそんなこと言わなくたっていいよ。」
 ふてくされて言う私に、
「そうね。でも出さないから。寂びしいから。いいよね。」
 私は、うなずいた。
 
エレベーターの前に立つ。私の手からあの温もりが、すーとすり抜けていった。

 エレベーターを降りていく先生が見える。私は、悲しくなって下を向いた。それでも、もう会えないと思い顔を上げる。その時、エレベーターの陰に隠れていく先生の肩が、小刻みに動いているのかいないのか、そんな先生の後姿を私はじっと見つめていた。
by corobo | 2005-02-08 01:53 | Written Explanation

第五章 書初め

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 『小中学校教科書の毛筆手本について』  父
                   学書階梯 第三巻第七号 巻頭言

  小中学校教科書の毛筆手本は、レタリングと変わりがなく、息遣いを感じません。渇筆は殆ど無く、字肌はパラフィン紙に書いたように綺麗です。素人目にはよく見えるかも知れませんが、高村光太郎はそういう線を毛穴のつぶれたような線といっています。毛穴のつぶれたという事は、のっぺりとして呼吸をしていないということで、死んだような線ということになります。
  渇筆は、紙質や含墨の度合い、速度や墨の濃度、筆圧等によって、その出方はさまざまですが、殊更に出そうとしなくても、多少なりとも出るのが自然です。ところが教科書の手本は、活字を太くした程度のもので、べったりと貼り付いていて、生きた漢字はまったくありません。文字は書いても書とはいえない代物です。それは筆意を感じないからで、版木の刻って刷ったものと何ら変わりません。オートメーション化して機械が書いたように殊更息を殺して書いたようです。正直も度を過ごせば何とやらで、慎重に過ぎて、一画引く毎に鋒先を硯面で直し直し書いたように見えます。初歩のうちは致方ないとしても、多少毛筆に馴れて来れば、一筆で何字も書ける様に筆遣いを指導すべきものです。ところが教科書はそうなっていません。たとえば横画の起筆はどの字も四十五度になっています。一画一画の線が殆ど同じ太さ、同じ形に書いてあり、それは丁度判で押したようで融通が利きません。
  手本がそんな風ですから、力の無い教師はそういう手本そっくりに書くことを要求し、それから外れるのはいけない事と判断してしまいます。手本に渇筆が無いので、渇筆はいけない事として指導してしまいます。子供が如何に伸び伸びと豊かな味のある線を書いても、切れ味のいい鋭い線を書いても、手本から離れていれば、皆いけないとしてしまいます。指導要領に書いていない事は、総ていけないとするものの様です。指導要領に示してある事は、ここまでは指導したいとする最低線であって、力のある教師はそこを超えていきます。歌唱指導では元気に子供らしく唄えたとして褒め、図画では無邪気で子供らしい画といって褒めます。ところが、文字を書く段になると、子供の童心を抑え、大人の世界に引き入れて疑問を感じないのは、片手落ちという外ありません。
  指導要領には、文字を正しく、字形を整えて書くことが主になっています。正しい文字とは、点画が揃っていれば誰の字も正しいのであって、人の顔や物の考え方が皆違うように、正しい文字は人の数だけあるのであって、決して教科書の文字が唯一の正しい文字ということではありません。ところが字形を整えるだけの学習になってしまい、真の毛筆書きを書く楽しみは度外視された感があります。
  今の教師の大半が、大学で受けた毛筆書きの実習は、週に九十分の授業を一年間で二十三回位です。それだけの授業で、毛筆書の指導力は付き難いので、家庭で復習を徹底させるとか、大学教師の骨身を惜しまぬ情熱的で而も厳しい指導によって、学生が喜々として学び、書の技術面と書の本質とを少しでも深めるようにしなければならないと思います。
  教師に書の体験が浅く、毛筆で書くことの楽しみを知らない場合は、狭い範囲の見方しか出来ないために、子供の書のよしあしの判断を誤り、よしとする面がかなり限定されて、せっかくの子供のいい面を啄んでしまいかねないのです。実力ある教師の場合は、これもいいこれでもいいと容認する面が広いので救われる子供が多くなります。技術的に未熟な子供の毛筆書は、素朴で荒削りです。筆にしても手本の筆とは天地の差があります。そこで手本は、時に素人にとって荒削りに見える位がいいのであって、字形は喧しく言わずに情的に、或は譬喩的に扱い、筆遣いを主に指導すべきです。


 小学校では、四年生から毎年の正月に書初めが行われた。書道が授業として始まるのは、五年生からなので、学校で書を書くのはこれが初めてということになる。
私は、これまでに前出のコンクールで賞ももらっていたし、競書雑誌では、最高位の次の準特段という段位を受けていた。
 書初めには自信があった。金賞は間違えなく取れるだろうと思っていたし、実際書きあがったものもまずまずの出来だった。
ところがふたを開けてみると、私の書いたものは金賞どころか何も賞には入らなかった。
 父に、「なぜだろう。」と尋ねた。しかし、父はそれには何も答えなかった。私は答えがほしかった。父は、以前から書は字の形より線の強さが大事だとか、小学校の手本はまるでレタリングのようで好ましくないというようなことも言っていたから、当然今回の結果も「選ぶ方が悪い。」などと言ってくれるだろうと思っていたのである。
 しかし、父は一言も言わない。良いとも悪いとも。
 その後の書初めは、五年生のときも賞には入れなかった。
 
 五年生からは、選科として書道の授業が始まる、半紙に書く私の字は以外にも教師からかなり高い評価が得られた。しかし、書初めはだめである。私を受け持った書道の教師は、書家としても地位を得ている方で、その指導法や、先生自身の作品についても、父はかなり高い評価をしていた記憶がある。通常の授業で私の書く書を評価するのもその教師なら、書初めの評価も同じ教師なのだ。だから、書初めの私に対する評価を教師のせいにするわけにはいかなかった。
 では何故?
疑問は募るばかりで、解決という結論はそれについていかなかった。

 書初めの結果に、私はある屈辱感を受けることになる。
 私の家へ友達が遊びに来ることはたびたびある。そうすると、狭い家であるからすぐに父の蔵書を発見する。「すごいぞー。こんなに本がある。」と友達は言う。「お前のお父さんは、なんかの先生か?」と問われる。私は「書道だ。」と答える。友達は再び書棚を見回し、感心したようにうなずく。さらに友達は、「そうすると、お前も習字やってるのか。」と聞かれる。私は「うん。」と答える。「何級だ?」と問われる。私は平静を装いながら、しかし自慢げに「級じゃなくて、準特段なんだ。」、私は続ける「準特段というのはね、三段の上で特段っていう一番上の段の一つ下なんだよ。」と答えた。
 というわけで、友達の間に私は習字が上手いという噂が広まっていったのだった。
四年生の書初めのときは、まだ同情の声もあった。気の良い友達は、「学校と習うことが違うんだよ。」などと言ってくれた。しかし、五年生になるとこのような言葉も影を潜め、「やっぱりあいつは下手なんだよな。」などという声を聞いたような聞かないような、そんな中で私は、頭の上から重い塊が覆い被さっているような嫌な重圧に耐えることになった。

 しかし、ある日のこと、父と書の練習をしているとき、ふとあることに思い当たる。
それは、授業で使っている紙は「半紙」なのだが、書初めに使う紙は、全紙の八つ切り版で、半紙をたてに三枚ほど連ねたような大きな紙であることだ。そこに一行で四字書くのが通常であった。
 半紙に書いたものを観るときは、子供の私にして紙から30cm程度の距離からということになる。一方、書初め用紙はとなると、おおよそ3m位であろうか、観る距離がまったく違うのだ。私は、自分の書初めで書いたものを近くで観てみる。それほどまずいとは思えない。しかし、3mの距離になると、これがまったく違う印象に見えたのだ。近くで一字を観ればそれはそれで良く見えた。しかし遠く離れると、何か弱々しく、ひょろっとしていて、力強さが感じられない。そればかりではない、字と字が皆ばらばらで、まとまりが無い。全体的にかさっと乾いたもののように紙にただ字ががさがさ詰めこめれているだけだった。私は、また近くへ寄せてみる。また遠くへ離してみる。何度かこれを繰り返すと、私なりに、ある結論に結びついた。
 父は、線の美しさをまず第一に教える。字の形は二の次だと言う。しかし、これは字の形が一番ではないと言っているだけで、何番目にくるのかは知らないが、ないがしろにしてよいとは言っていないのだ。それから、書を書く場合の全体のバランスも大事である。

 父は、「書は文字であるから、生活に密着しているところが本当の姿だ。」と言う。通常の生活において万人が好む「字」を対象とするのが書であるという意味なのだろう。
 全体としてアンバランスで、かさかさしたつまらない私の字は、万人が好む字でないことは確だ。書は、誰でもが書く字に外ならず、万人が「良し」とする字であるべきなのだ。
父は、生活に密着した字を「高い調子で書いたもの」が芸術だと言う。だとすれば、芸術は、万人の持つ字に対する通常の生活の中の感覚と通じるものがあるはずである。だから師は異なろうと、素晴らしい芸術は、誰が観ても感動を与えられるものなのだ。
 当時の私が、このようなことを具体的に分析できたわけではない。しかし、大筋において、同様の結論に感覚としてたどり着いていたことは確かなように思う。
 以後私は、字形と、バランスを意識するようになる。書いたものは、必ず遠くから必ず見直す行為を繰り返した。
 父は、その過程で、私に何も教えることはしなかった。あの墨がピチャと硯の外へ飛び散るときに「こらー!。」と怒られるくらいなものであった。私は、「もう少しは、教えてくれたっていいんじゃないの。」などとぶちぶち父に文句を言いながら、その年の書初めの練習を繰り返した。
 その甲斐あって、その年の結果は金賞であった。同時に行われた県展にも出品したが、結果は準特選をもらった。
 実際私は、嬉しかったし、父も喜んでくれた。それに「やっぱりあいつ下手なんだよな。」という聞こえたか聞こえなかったかしたあの重圧から逃れられたのも嬉しさを増すのに一役かっていたのである。
by corobo | 2005-02-04 23:39 | Written Explanation

第四章 石

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 ある日突然、父が大きな白っぽい石の塊を持って帰ってきた。縦横30cm位あって、厚さは10cmはあったと思う。
 私の横にその石を置いて、
 「今度な、この石を削るから一緒について来い。この石に綱を巻きつけてな、それを自転車の後ろに縛って、俺が自転車で引くから、お前はこの石に乗れ。」
 と言うのだ。
 私は、一向に意味は分からなかったが、どうも面白そうだったので機嫌よく「いいよ。」と答えた。
 翌日の日曜日、父は私を連れて、家の近くの土手へ向かった。
 土手は、水面からおおよそ5mほどはセメントで出来ていて、その一番上の所は1m程度平らになっている。自転車でもその上を走ることが出来る広さである。セメントで出来ているのだから、その表面は適当に凹凸があり、その凹凸が例の石を削るのに丁度良い摩擦を与えてくれるのだろうと父は考えたようである。
 予告どおり、綱で縛られた石の上に私は乗った。これは面白そうだとわくわくしながら出発のときを待った。すぐに父は、「よし、行くぞ。」と言う。私は綱をしっかり掴んでまるで遊園地の犬ぞりにでも乗るように期待を込めた。
 父は、良しとばかり、ペダルを踏む。石が動き出す。ガリガリと音を立てて滑り出す。ところが50cmも進まないうちに、私はコテッと石から転がり落ちてしまう。自転車は一度止まり、父の「もっとちゃんと乗れ。」の号令が飛ぶ。私は前よりもっときちっと乗りなおす。綱をしっかり掴んで、また出発である。しかし、また私はコテッと落ちてしまう。父は首をひねり、「だめかー。」と私に尋ねる。私は、このゴトゴトが意外と楽しかったので、まだまだとばかりまた乗りなおす。しかし、結果は同じであって、私はコテッと落ちてしまう。五回ほど繰り返したが、父もこれにはあきらめたようである。
 すると今度は、
 「石の上に両手を乗せて、雑巾がけの恰好をしろ。」
 と言うのだ。
 私はいわれるままにその恰好をしたが、この恰好は非常に厳しい。腰掛けてゴトゴトと引かれるのは気持ち良いと思っていたが、これはひどい。走り出す自転車。ゴトゴトと石がうなりだす。私の手もそれに合わせてゴトゴト震える。5mもいかないうちに悲鳴を上げた。
 「もうだめだよ。」
 父は急に優しげな顔をつくって、
 「もう一回な。」
 と言う。
 仕方なく私は、また雑巾がけの恰好をしてゴトゴトと震えながら自転車に引かれていく。今度は10mくらい進んだ。しかし限界である。「もーだめだー。」と悲鳴を上げる。『これって、書道の修行の一つ?』などと石に向かって疑問を投げ掛けながら、更にもう一度雑巾がけの恰好が始まった。10mほど行くと、ついに私は石の横にコテッとこけてしまった。
ついに父もあきらめたようで、私の横に来て、石の磨れた面をまじまじと観察しだした。
 首をかしげる父。下から見上げる私。「上手くいかなかったの。」と尋ねると、父は反対側に首をかしげ、
 「帰ろう。」
 と言った。この言葉は、石削り作戦が失敗したのだと言うことを私に悟らせた。
 
 この石の塊、いったい何に使おうというのだろうか。まったく分からないまま、あの雑巾がけのことは忘れてしまっていた。
 それから一ヶ月位経っただろうか、父はまた大きな包みを抱えて帰ってきた。私の横にその包みを置くと、おもむろにそれを開いた。すると、それは黒くでこぼこした面と、その裏側はきれいに磨かれ、わずかな窪みを持った面とその先に更に深く作られた窪みを持った綺麗な石であった。私は、それがあの雑巾がけの石であることは直ぐに気付いた。
 こんなに綺麗になるなんて、というのが私の最初の印象である。がたがたしたでこぼこ石がこんなに綺麗に磨かれている。そしてそれが、大きな硯であることも直ぐに理解できた。
 父は、
「この硯は、半切のような大きな紙に書くときに使うんだ。小さいと直ぐに墨がなくなるだろ。だからこんな大きな硯を使うんだ。俺は、これを自分で作ってやろうと思ったわけだ。だからお前をこの石に乗せて引っ張ったんだが、どうも上手くいかなかった。それで、しょうがないので業者に頼んでな、作ってもらった。どうだ綺麗だろう。」
と言った。
 私は、本当にその石が綺麗だと思った。もとの白っぽいかさかさしたデコボコ石からこんなに綺麗な硯が出来上がることが信じられないくらい見とれてしまった。墨をする部分の窪みは本当に綺麗に削られていた。硯の側面と裏側はデコボコの形を残していたが、やや艶を含んでこれもまた綺麗に仕上がっていた。
 以後その硯は、父の机の隅に常に置かれた。私が、「磨らせて。」と言うと、父はにこにこしながら、その硯の向きを変えグーっと私のほうに押し出し、いつもより大きな墨を貸してくれて、私は得意になって墨を磨ったのである。
不思議なことが起こる。どんなに硯が大きくても、しばらく磨っていると、私の持つ墨はあの窪みの縁に当たる。ピシャっと墨の液体が空中を舞ってしまうのだった。
 
子供というものは、父親を何でも出来るスーパーマンのように思う。
今の時代はちょっと違うのかな?
でも、あの時代は、そう思っている子供は非常に多かったように思う。私もその一人だった。
 父が、こんな大きくて綺麗で立派な硯を作ってくるということが私のスーパーマンを更に立派にしていた。それに、こんな大きな硯は学校の先生だって使っていなかったし、それにあのでこぼこした硯の恰好が、何故か父を他の誰からも異なる偉大な存在に思わせたのだ。
そんなわけで、父がその硯で墨を磨る姿は、特別私の記憶に深く残っている。
by corobo | 2005-02-01 20:01 | Written Explanation